雪割草
〈65〉飼い主探し
焦げ茶の仔犬が少し大きくなったと思っていた時、光圀が、わがままを言い出した。
犬の飼い主探しだけをしていたせいで、見たい物が見られないと文句を言い始めた。
「…ご隠居、そんなことなら早くおっしゃってください。我々がお供するので。」
「そうです。どこに行きたいんです?」
「美濃和紙が見たい!」
「和紙ですか?」
「大日本史の表紙にならんかと思っての。どうじゃ?」
「…はぁ。水戸で取り寄せるのではダメですか?」
「この目で見たい!漉くところを見たいのじゃ!」
「わかりました。お供いたしましょう。…格さん、金は少なめにな。」
「え?なんで?」
「…買ったら荷物になる。それにな、大日本史は当分出来上がらん。表紙なんて夢のまた夢だ。」
「…へぇ。そうなんだ。」
二人で紙問屋へ供をしたが、案外面白かった。
若い主人は人がよく、興味を持った光圀をわざわざ、下請けの紙すき工場にまで連れていった。
液体の中に機械をくぐらせるうちに紙が出来上がる。不思議だった。
光圀が店先で主人からいろいろと説明を聞いて楽しんでいる側で、早苗は一人考えていた。
ご隠居さまは大日本史の表紙っておっしゃってたけど、わたしは日誌を書いてみたいな。
帳面が足りなくなってきたから、自分のお金で買おうかな?
いろいろ綺麗なのが置いてある。いいなぁ。
そんな事を考えていると、店の奥から、泣き声が聞こえた。
「申し訳ありません、すぐに静かにさせますので。」
そう言うと、若い主人は奥に入ってなかなか出てこなかった。
「申し訳ありません。娘が泣きやまなくて…。」
「どうされたんです?」
「母親が今実家に帰って不在でしてね。寂しくてたまらないんです。今丁度忙しい時期で誰も遊んでやれないんですよ。」
「それは、かわいそうですな。」
「動物が好きなので、遊び相手にと思って猫を近所からもらったんですが、気まぐれでいつもいない。野良になってしまって。それで、今度は金魚を飼ったんですが、ただ眺めるだけなので慰めにはならない。」
早苗はいいことを思いついた。
「あの、犬は?」
「あぁ、そうです。仔犬も探しているんですがね、なかなか見つからなくて。」
「うちに一匹いますよ。どうです?一度会ってみますか?」
「そうですか?では、ぜひお願いできますか?」
「お待ちください。助さん、ご隠居頼む。」
「おう。…焦げ茶にしろよ。黒いのはやめた方がいい。」
「わかった。」
急いで宿に帰り、焦げ茶の犬を連れて店に戻った。
「連れてきた。」
「おい、黒いのも連れてきたのか?」
「へ?」
「後ろに座ってるぞ。」
振り向くと言葉通り、お座りしてこっちを見ていた。
「あなた、ついてきたの?」
「ワン!」
「ここで助さんと待ってなさい。いい?」
「ワン!」
「よし、黒いの、俺と遊ぼう。」
「ワンワン!」
一人と一匹を外に残し、早苗は焦げ茶の仔犬を抱っこして店に入り、主人に見せた。
「この仔です。どうですか?」
彼も犬好きらしく、しばらくなでて気に入ったようだった。
「おとなしそうですね。娘に見せてやってください。」
「娘さんの名前は?」
「梅です。」
案内されて入った部屋には三つぐらいの女の子がいた。
筆で、紙に絵を描いていた。
紙問屋で紙が十分にあるらしく、部屋にはこの子が描いたらしい絵がたくさん置いてあった。
ほとんどが動物。
猫や、金魚の絵もあった。
「お梅ちゃん。こんにちは。」
「こんにちは。」
「何描いてるの?」
「うさぎさん。」
かわいいウサギの絵を描いていた。
「うさぎさん好き?」
「うん。柔らかいから好き。」
この子なら大丈夫かも。
「お姉ちゃん、それなぁに?」
抱っこしていたものに気がついた。
お姉ちゃんって呼んでくれた!
お兄ちゃんなんかよりずっといい!
「わんちゃんよ。抱っこしてみる?」
「うん。」
仔犬は、お梅を怖がることなくじゃれはじめた。
「どう?かわいい?」
「かわいい!」
きゅっと抱きしめて離さなかった。
「飼う?大切にしてくれる?」
「うん。お友達になる。」
「じゃあ、お梅ちゃんにあげるね。かわいがってあげてね。」
「お姉ちゃんありがとう。大切にする。妹か弟生まれたら、一緒に遊ぶね。」
母上が実家に帰ってるって、そう言うことか。
そのうち寂しくなくなる。
でも、この子ならそのあとも仔犬をかわいがってくれる。
店のご主人も犬好きそうだったし。
大丈夫。
「名前つけてあげてね。」
「女の子?」
「そうね。女の子。」
「じゃあ、さくらにする。わたし梅だから。」
「かわいいね。梅とさくら。」
「お姉ちゃんは?」
「早苗。」
「早苗お姉ちゃん、一緒に遊んで!」
「いいわよ。」
しばらく一緒に遊んであげた。
お手玉して、あや取りして、犬のさくらと庭で走りまわった。
しかし、そうしている日も暮れて来たので、宿に帰ることにした。
帰り際、主人に呼び止められた。
「娘に良くしていただきありがとうございました。あの、こんなものしかありませんが、ぜひもらってください。お礼です。」
「え?いいんですか?」
「はい。ぜひ。」
欲しいなと思っていた綺麗な帳面だった。
これで日誌が書ける。
主人が見送りに立っていたが、番頭が大慌てで走り出してきた。
その番頭が主人に耳打ちをしたとたん、主人は地べたに座り込み頭をあげなくなった。
「御老公様とは存じ上げず、無粋な真似をお許しください!」
「…ご隠居、なんでばらしたんです?」
「いや、わしはただ紙の納品を頼んだだけじゃ。」
「宛名は?」
「水戸。しまった、名前を書き間違えた。光圀ではなかったの。はっはっは!」
「…そりゃばれますよ。」
早苗と助三郎があきれる傍で光圀は主人に言葉をかけた。
「御主人、今は旅の隠居じゃ。畏まらなくて良い。…良い紙を期待しておるでの。」
「ははっ!心してお届けいたします!」
紙問屋の面々と別れ、宿へ戻った。
早苗が抱っこする黒い犬を見て、助三郎は思っていた。
自分にいつもついて来る。
早苗にもすごくなついている。
他の犬は嫌がった格之進も怖がらない。
こいつを誰かに預けてしまうのは惜しい…。
可愛くてしょうがない。
そうだ!
思い立ったが吉日で、光圀に頼んだ。
早速早苗に知らせてやらないと。
早苗を探すと、もう夜だったので格之進に変わっていた。
「あのさ、仔犬の飼い主募集は今日で終わりだ。」
「どういうことだ?」
「ほれ。」
手渡されたのは黒い仔犬だった。
「あれ?どうした?」
「ワン!」
良く見ると、今までなかった首輪が付いていた。
「この黒いのは、俺らと一緒だ。…お前、犬飼いたいんだろ?」
「あぁ。でも、母上がおこるから…。」
その話は知っていた。
早苗の母ふくが動物嫌いで何も飼わせてもらえない。
子どもの時からそれでしょっちゅう泣いていた。
拾った猫や犬、スズメ、カラスを持って帰っては捨ててきなさいと怒られ、泣いていた。