雪割草
〈70〉真の敵
夜が明けたころ、願掛けに切りをつけた。
良く晴れた朝だった。
今日、明日、明後日が峠。なにも起こらないでほしい。
無事でいてほしい。
「…あの。」
声がした方を振り向いた。一瞬許嫁が帰って来たかと錯覚したが、すぐに違うとわかった。
「義さん。どうされました?」
「…本当に申し訳ありません。そこまで心配させてしまって。」
心底申し訳なさそうに言う義勝の眼は、早苗の足もとに行っていた。
|水垢離《みずごり》後で水が滴たり、水溜りを作っていた。
「…これ、使って下さい。このあたりは夏でも朝方は冷えますので。」
手拭いを差し出してくれた。
「ありがとうございます。」
受け取り、水を拭き取った。
着物は完全にずぶ濡れだったので、顔や手についた水滴だけ拭き取った。
一通り拭き終ったころ、義勝がつぶやいた。
「…早苗さん。決心しました。叔父上を裁きます。…たとえ、これ以上今まで知らなかった真相が暴かれても、もう昨晩のように動揺はしません。」
そう言った義勝の顔は今までとは違い、悲しみや不安が消えていた。
決意した男の顔だった。
あの人に似てる。
そっくりなはずだけど、中身が違うから違って見えた。
でも今は良く似てる。助三郎さま…。
「…助さんが貴女を選んだ訳がよくわかります。」
「そうですか?」
未だによくわからない。わたしのなにが良いのか。何を見てくれたのか…。
帰ってきたら、聞いてみようかな。
「全てが終わったら小夜にあの事、言おうと思っています。大丈夫でしょうか?」
「はい。ご心配為さらず。きっと上手く行きますよ。」
義勝から相談を受けた。女の子の気持ちが良く解らない、どうしたら良いかと。
自分自身も経験が浅いので、助三郎にやられてイヤだった事、してほしかった事は言っておいた。素直に聞いてくれた。
「ありがとうございます。」
「義さん。あとはお殿様らしく堂々とする事です。頑張ってくださいね。」
「はい。」
義勝と別れ、冷えた体を温めるため風呂に入った。
温まり、心も幾分軽くなった気がした。
しかし、格之進に変わろうとしたが、なぜかこれまで以上に時間がかかった。
昨晩、早苗に戻る時も時間がかかったが、それよりもさらに長くかかった。
これじゃ、いざという時危ない。
女に戻るのは全てが収まってからにしよう。
その頃、城では小夜が急いで知らせを助三郎に持ってきた。
「若様、叔父上が戻られます!」
「へぇ。」
「なんですか?やっと若様の身が安全になるんですよ。あなたは元に戻れる。」
「やった。いつですか?」
「早ければ明日の朝には着くそうです。」
明日の夕方には、みんなに会えるかな。
やっとここから出られる。
でも待てよ…。
叔父が帰ってくるだけで、身の安全は守られるのか?なんか納得いかないな。
そういえば、朝から何かがおかしい。
早苗にもらったお守りがやけに重い。
存在をやたらに主張してくるが、なにか不吉なことでもあるのかな?
念には念を入れてだ、叔父の行動に注意しておこう。
まさかの事がある。
いつもどおりぼーっと過ごしていると、昼過ぎに城が騒がしくなった。
「どうかしたのか?」
「御殿様がお戻りです!」
「早くないか?」
「良いではないですか。叔父上が若様に会いたいからでしょう。」
「ふぅん。」
いそいそと支度をする小夜の傍で、助三郎はいつもと様子が違う懐のお守りを眺めた。
何かがある。絶対何かがある。
それからすぐ、藩主である義勝の叔父が奥に入って来た。
若様が自分に似てるから、藩主は自分の親戚に似てるかと期待したが、似てはいなかった。
「おぉ、義勝。元気でおったか?」
「はい。叔父上もお元気そうでなによりでございます。」
よし、バレてはいない。
しばらく若様の振りして、探ってみよう。
「わしの留守中、何をしておったか話してくれんか。ひとまず茶室へ行こうではないか。」
やっぱりな、暗殺の常套手段だ。
若様暗殺未遂の黒幕は叔父だったのか?
「はい。」
助三郎の後に、小夜と由紀が付き添おうとしたとたん、叔父は止めた。
「小夜、ご苦労だったな。ここで休んでおれ、そのお前もだ。」
「はい…。」
腰元二人は遠ざけられた。
小夜は不可解な表情を浮かべていたが、由紀はわかっていた。
不安そうな顔をしていたので、心配するなと眼で合図を送った。
茶室は城の奥の庭のはずれにあった。
普通より窓が大きく、明かりをたくさん取りこめるように設計されたうえ、一流の大工に作らせたというだけあって、豪華な造りだった。
しかし、人があまり立ち寄らない場所に建てられているので、密会や暗殺に好都合。
その茶室で、叔父は洗練された手つきで茶を点てると助三郎の前に置いた。
「義勝。さぁ一服。」
懐紙をとろうと、懐に手を入れた時、今まで以上にお守りが重く感じられた。
飲むなってか?まぁ、毒だろうからな。
神さまの言うこと聞いておこう。
茶を飲むふりをしてすべて捨てた。
しばらくたわいもない会話をしていたが、突然関係のないことを叔父は言った。
「どうじゃ?気分は。」
やっぱり毒を入れたな。
神様、早苗、ありがとう。助かった。
だが、ここは演技しないと。
「何だか、胃の腑が…。くっ…。」
「医者を呼ぶか?」
さも、心配だというように聞いた。
「はい…。お願い致します…。」
「残念だが、諦めろ。」
薄ら笑いを浮かべながら藩主は言った。
「え?」
「茶室で、心労のあまり自害。そうしておこう。…お前の父親と同じようにな。」
不気味な笑いを浮かべていた。
「……。」
とんでもない事実を聞いた気がした。
「知らんかったか?兄上は病死ではなかったのだ。」
「……。」
「わしがこの場で今のお前と同じように殺した。兄上はわしを疑わなかった。哀れなやつよ。」
若様の父上を?先代藩主を?
「ついでに江戸の正室も始末してやった。お前も父上、母上とあの世で再会させてやろうとお情けで殺したはずなのに。わしの室が逃がしてしまっていた。」
母上まで手に掛けたのか?
「まさか、国元の岸田がかくまっていたとは。あいつも人を疑わない。『しっかり成人しました、御喜びください』とのこのこ連れてきよった。」
「…私が、時期藩主では?」
「本当はそうだった。兄上の遺言ではな、『自分にもしもの事があったら、義勝を藩主に据え、弟に補佐させろ』と書いてあった。しかしな、わしも人間だ。
一生部屋住み、御飼殺しはイヤだ。二番手もイヤだ。そこで兄上を殺し、遺言は書き換えた。」
笑いながらいけしゃあしゃあとそんなことを言う。
助三郎は腸が煮え繰り返った。
「…人の皮をかぶった鬼め。」
優しい若様がかなしい目をしていたわけがわかった。
幼いうちに突然父も母もなくなった。
俺には痛いほどわかる。父上がいない辛さが。
皆には父上がいる。今も生きている。
俺は早死にされたせいで出仕が早まった。
母上にもうちょっと甘えたかったのに、大人扱いされ、敬語で話され、風呂も寝所も一人。