瀬戸内小話3
晩景の月
――声を嗄らして鳴く鳥の姿ぞ哀れ晩景の月
「すまなかったな。ゆっくり、休んでくれ」
大地に膝をつき、物言わぬ骸をそっと撫で、死に際の兵を看取る。
昼過ぎに終わった稲葉山の合戦から数刻、元親は血と泥で汚れた軍装がさらに汚れるのも構わず戦場を歩き続けていた。
海賊が陸に上がり、武士と剣を交えたのもすべて元親の采配による。愛する家族から離れ、山中でひとり死んで行く海の男の死は、すべてこの鬼のせい。
それを思えば、いくら詫びても足りないほどだ。
「海にも還してやれなくて、悪ぃな……」
無数の遺骸を抱え、船に戻るには距離がありすぎる。ここに置いていくしかない。それが余計に、鬼の心を抉る。
生き残った兵士らは、そんな鬼の背を、ただ遠巻きに見守るしかなかった。
「……愚かな男だ」
毛利の陣中で、その報告を聞いた元就は呟く。道理で、毛利の兵の働きが悪い。
合戦が終わった後も、名のある豊臣方の武将の落ち武者狩りは続行されるし、陣を引き上げる準備もある。
駒として動くことに馴らされた毛利の兵達も、情で動く長曾我部が傍にあってはいつになく不安定になる。戦の後ではなお更だろう。
同盟など、組まねばよかった。豊臣方との合戦は、元は毛利の戦。長曾我部の助力など受けずに進めたほうが、後々の憂いも少なかったかも知れぬ。
しかし、それも今更のことと息を吐くと、元就は輪刀を手に立ち上がった。
物静かな屍の合間より、ざわめきが広がる。
踏みつけられて骨が折れる音と、死にきれぬ者の断末魔に、元親は弔いを止め顔を上げた。
「……貴様、いい加減にしないか」
輪刀を払い、血糊を飛ばす。その先端が、西日を受けて輝く。
「邪魔だ。陣に下がれ」
「……おまえこそ、さっさと陣を引き払って消えればいいだろ」
ひとつの表情も動かずに言いのける元就に、元親の頬がひくりと痙攣する。
「テメエは、もうちょっとは部下を悼め!」
地面に突き刺した碇槍を引き寄せる様に、周囲の兵士らが息を飲む。
毛利と長曾我部は此度の戦を共に戦った同盟国だが、軍のありようはあまりにも違う。その極めつけが、総大将ふたりの戦いに望む姿だ。いつ何時、この危うい同盟が崩壊してもおかしくない。それは、多くの武将が懸念していたこと。
それを分かっているはずの元就はふんと鼻で笑うと、元親の後ろにずっと控えていた信親に視線を向けた。
「さっさとこの阿呆を、長曾我部の陣へ戻せ。これのせいで、引き上げもままならん」
「お前っ……!」
顔を赤くした鬼が、言うが早いが鉾を振るう。それを輪刀で流すと、元就は続けた。
「それと、長曾我部の兵も借りるぞ。櫓は当に組み終わっているのだ。早くせねば、日が暮れる……」
語尾をかき消す重い剣戟の音と、両軍の悲鳴。宙を舞った輪刀が、日差しを受けまた光った。
「……陣に下がるのが嫌ならば、貴様も兵士を手伝え。お前が感傷に浸る間、毛利の兵も遠慮したのだからな」
「死んだ兵を悼むのは、当然のことだろうが!」
「時間の無駄だ。悼んだところで、駒は生き返らぬ」
元親の矛先は、元就の喉下。両軍が気色ばむのを元就が軽く手を振って制し、幾度目かの息を吐いた。
「早くしろ。日が暮れては、毛利の兵も長曾我部の兵も、豊臣の兵も判別がつかぬ。夜になれば、犬や夜盗も出てくる。貴様の大事な兵が食い散らかされたくなければ、さっさと動け」
話は終わったと、喉に当たる矛先で肌が裂けるのも気にせず、元就は歩き出す。彼の背後に控えていた毛利の家臣らも慌ててその後を追う。
「っ、ちょっと待て!」
「父上、落ち着いてくださいっ」
怒りが収まらず、その背に向かって殴りかかろうとした元親を、信親が慌てて押さえる。
「毛利殿を殴るのは、この先何をするのか聞いてからでも遅くないです!」
意外ともいえる息子の言葉に、さすがに虚を突かれる。ポカンとして、急に肩の力が抜けた。
「……ったく、お前も言うな。で、そっちの大将は、何をする気なんだ」
元就の後を追わずその場に立ち止まったままだった隆元が、頭を下げた。どうやら、元々説明のため残っていたらしい。
「遺骸を集めます。兵士らにはすでに指示をしておりますので、長曾我部の兵にも命じてください。遺骸を焼く櫓は長曾我部の陣の近くに組ませてもらっています。一晩ほど火の番を置いてもらえば、骨になりましょう」
すでに毛利の兵は荷車を引き、鎧を見ながら自国の兵を集め始めている。
「……焼くのか」
「長曾我部軍では、遺骸は海に流すと伺っています。ですので、焼いたほうがよいだろうと殿が……」
ぽつりと呟いた元親の言葉に、隆元が応える。
「そのほうが、海に戻してやれますから」
父に似た顔で、悲しげに微笑む。それが、氷の面で隠し切った元就の本心なのだろう。
瞠目して、糞と口の中でごちる。
「だったら、最初からそう言やいいだろ」
元親の文句はもっともだが、それができる男ならば元就は氷の面と仇名されていない。
「よし、野郎ども! 手伝え」
盛大な溜息を吐いて頭を掻くと、元親が声を張る。おお、と応える長曾我部軍の中で、すみませんと隆元がまた頭を下げた。
空が茜色に染まる頃、櫓に火が放たれた。
立ち込める臭いが、血臭が肉を焦がす臭いへと変わる。
元親が山裾の一角で、沈む夕日に合掌する元就の背を見つけたのは、そんな頃合だった。
「…………よぉ」
瞼を上げた横顔に、声をかける。気配で気づいていたのだろう元就は、驚いた風もなくこちらを見た。
「ずいぶんと汚れたな」
「ああ……」
兵士らと共に遺骸を集め火に焼べた。そのほとんどが、切り殺されたか矢傷のせいでの死。動かせばどろりと暗い血が冷たい身体から垂れ、元親の身体を汚した。それを気にとめなかったかといえば嘘になるが、とうに返り血で汚れている。
「さっきはすまなかったな。普段なら、穴掘って埋めるって聞いたぜ」
毛利の方では、遺骸集めは下っ端の仕事という。そんな彼らから聞いた話をあわせれば、毛利の軍は豊臣の再襲撃に備えているという。だから、よほどのことがない限り、火葬にはしないとも。
「……豊臣がまた戻ってくるかと思ったが、どうやら完全に引いたようだ」
さらりと元就は応える。その喉元に残る一線の傷は、もう血が固まっていた。
「明日には、引くぞ。これ以上、駄々をこねるな」
「だから、悪かったって言ってるだろ」
傷つけた分、こちらのばつが悪い。頭を掻いてそっぽを向く元親の仕草が、妙に子供のようだと元就は目を細めた。
「して、終わったのか?」
「ああ。毛利んとこにも火が入ってたぜ」
人の言葉にそうか、と呟く横顔は、息子と違い何の表情も浮かばない。
残照が照らす空を、元就はただ見つめている。地上で生き死にしている者などどうでもいいという態度に、元親をはじめ多くの者が誤解する。でも、彼は状況が許す限り兵を弔っている。
「……なあ、毛利」
呼びかけには応えず、ちらりと視線だけが寄越される。
「あんた、もうちょっと兵に優しくしてやれよ。あんたの息子はよく出来た将なのに」
「貴様に誉められるとはな」
口では憎まれた言葉を吐きながらも、元就の目元がふと緩む。