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マトリョーシカ

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1989年10月 ショプロン


 ショプロン駅に降り立つと、改札の手前にパスポートコントロールがある。
 ミーシャの知り合いだという男にパスポートと身分証を見せると、実にあっさりと入国許可がおりた。特権があるから入国拒否されることはないにせよ、ヴィザを持たずに来た理由や入国の目的などを、しつこく聞かれるぐらいの事は覚悟していたのだが。なんだか拍子抜けしてしまった。
 ミーシャのやつめ、とザイコフは思った。あの頃の公安局とのコネクションが未だに活きているらしい。おおかたユリアの身柄がハンガリーに戻された時から彼女の消息を知っていて、それを黙っていたのだろう。だが、ミーシャを恨む気持ちはなかった。それが彼なりの気遣いだったということは、ザイコフにも分かっていた。

 この国境の小さな城塞都市には、今では西側からも多くの観光客が訪れるらしく、駅の周辺にはツーリスト・インフォメーションが設けられ、城壁の周囲にはいくつかの新しいホテルやレストランが並んでいる。だが、少し郊外へ出れば、そこは相変わらずの東欧の田舎町で、明かりのまばらな道路は鋪装されてこそいるものの、あちこち傷んでひび割れていた。
 そんな道路を車で15分ほど走ったところに、セーチェニ記念病院はひっそりと建っていた。
 ザイコフはまず、入院病棟の入り口でユリアの病室を訊ねた。受付窓口のガラス窓を軽く叩くと、少々かっぷくの良すぎる看護婦が顔をのぞかせた。長らく使っていなかったから、ザイコフのマジャール語はすっかり錆びついてしまっていたが、それでもドイツ語まじりのカタコトでなら、どうにか通じる程度に話すことができる。たぶんロシア語で話せばある程度は通じるのだろうが、ザイコフはあえてその選択を退けた。ロシア人だと分かった途端に敵意に満ちた視線を返されるのが分かりきっている。こんなところでわざわざ不愉快な思いをしたくはないし、その必要もなかった。
 たどたどしいカタコトであれ当地の言葉を話そうとする外国人には、どこの国の人間も親切である。この看護婦もご多分にもれず、愛想よく笑顔をみせながら「2階の23号室ですよ。階段はそちらの廊下のつきあたりです」と教えてくれた。ザイコフも社交用の微笑を返し、「クッスヌム・シーベン(どうもありがとう)」と礼を言って窓口を離れた。
 教えられた通り階段で2階に上ると、病室は廊下の左側に21号室から順に並んでおり、3番目のドアが開いたままになっているのが見えた。階段を上りきった所で少しためらった後、ザイコフはその開かれたドアに向かって、ゆっくりと近づいていった。

 ルカーチ・ユリアは窓のそばに椅子を据え、ガラス越しにぼんやりと外を眺めていた。外はすでに夕闇が立ちこめており、黒々とした木々の向こう側に中心街の明かりが見隠れしている。濃い紫色の空に突き出して見えるのは、城壁の中に建つ古い尖塔のシルエットだろう。
 窓の方を向いているのでドアの所から顔は見えなかったが、あの頃よりも少し短めに切りそろえた髪は相変わらず見事な銀色で、長い手足もほっそりした体つきも30年前と少しも変わっていないように思えた。何と声をかけたものか思いつかぬまま、その後ろ姿を眺めていると、背後で止まった足音に気づいたのだろう、ユリアはゆっくりと振り向いた。
 相変わらずの白い顔に相変わらずの赤紫の瞳。その顔は驚くほど変わっていなかった。いや、変わったと言うべきだろうか。整った顔立ちは以前のままだが、つくりもののような冷たい印象はすっかり薄らいでいた。もちろん目の周りや口元には30年の時の経過がそれなりに刻まれてはいたが、あるいはそれらがユリアの顔に自然な人間らしさを与えているのかも知れない。余命いくばくもないと聞かされていたが、見たところさほど重病という風には見えなかった。
 病室の入り口に立った男の顔を認めたとたん、ユリアは目を見開いて息を飲んだ。どうやらこちらが誰なのか分かったようだ。ザイコフは穏やかに微笑して見せたが、気のきいた言葉は見つけることができず、結局口をついて出たのはごく月並みな挨拶の言葉だった。
「…久しぶりだね…」
 すると驚いたことに----本当に驚いたことに、ユリアは満面に嬉しそうな笑みをたたえて応えたのだ。
「ようこそ、ガスパディーン…!」
 今度はザイコフの方が目を見張る番だった。ユリアの顔の印象が変わったのは、どうやら加齢のせいだけではないらしい。彼女は笑うことを覚え、生身の人間らしい表情を身につけたのだ。その笑みはもはやたちまち消えてしまう蜃気楼のようなものではなく、はっきりとそこに留まって彼女の喜びを明確に伝えていた。
 30年か…。
 ザイコフは改めてその時の長さに感慨をおぼえながら、窓際に歩み寄り、ユリアの傍らに立った。
「憶えていてくれたとは嬉しいね」
「すぐにあなたと分かりました。変わりませんね、あなたは…」
「そうかな? ずいぶん歳をとったよ」
「それはそうでしょう。そんなおひげもありませんでしたし」
「おかしいかね?」
「いいえ、よくお似合いです」
「ありがとう」
 ザイコフが白い歯をのぞかせて笑うと、ユリアは眩しいものでも見るようにちょっと目を細めた。
「でも雰囲気は変わっていません。そんな風に笑うと、やっぱりあの頃のままのあなたです」
「…君は逆だな。外見はあまり変わらないが、ずいぶん雰囲気が変わった」
 ザイコフは正直な感想を述べた。
「やっと人並みに笑えるようになりました。時間はかかりましたけれど」
 ユリアは小さく頷いてそう言うと、再び窓の外に目を移した。
「でも、何よりも変わったのは時代ですね…」
 その時になってザイコフは、ユリアが見ていたのは街の灯りではなく、その向こうに横たわっているはずの国境だということに気がつき、自分も黙って窓の外に目を向けた。
「この街の向こうに最初の穴が開いてから、あなたの国の目に見えない城壁は急速に崩れ始めています。何年か先…そう遠くない将来には、目に見える壁にも穴が開く日が来るのかも知れません。その時あなたは…あなたの国は………どうするのでしょうね…?」
 答えようのない問いだった。それはこの数カ月間、ザイコフ自身が自らの中で繰り返している問いでもあった。もっとも、ゴルバチョフでさえペレストロイカを打ち出した時に、これほどの急激な変化が起こるとは予想していなかったと聞く。これから先の展開を正確に読める人間など、おそらくどこにもいないだろう。
「…分からないね」
 ザイコフは正直に言った。
「私に分かるのは、もはやこの流れは止めようがないということだけだ。今はただ、事態がどこまで動いていくのかをじっと見守る以外にない。行き着くところまで行き着いたら、その時の状況を見て成すべきことが決まるだろう。それまでは、何とも答えようがないな」
 ユリアは何も言わなかった。ザイコフもしばらくの間、黙って外の暗闇を眺め続けた。
 ユリアと並んで窓枠に切り取られた世界を眺めているというのは、なんとなく奇妙な感覚だった。ひどく静かで、激しく動き続ける東欧の現実がまるで別世界の出来事のように思えてくる。
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie