冥府の守人
ハデスは微笑み、「そのあたりにある果物は、自由に食べて貰って構わないよ」と言った。確か冥界のものを食べると戻れなくなるんじゃ、とヘルメスは一瞬思ったが、そういえば自分は冥界と地上を自由に行き来できる力を貰ったんだったと思い出したため、遠慮無くいただく。熟れた石榴は甘く、美味しかった。
それにしても、本当に寂しい場所だ。ヘルメスは思い、こんな場所に一人でいるなんて、とハデスの境遇に少なからず同情した。聞いたところによると、ハデスは今まで冥界を治めることに文句を言ったことは一度もないらしい。だから、地下が好きな変人なのかと思っていたが、そうでもなさそうだ。
足をぶらぶらとさせていると、顔を上げたハデスが苦笑して「暇だろう、すまないね」と言った。
「あ、いえ。ハデスさまこそ、こんなところにずっといて、退屈しないんですか」
「こんなところ、か」
自分の家を「こんなところ」呼ばわりされたら、いい気はしないだろう。あ、と思って慌てて言い直そうとしたが、「いや、構わないよ」とハデスはまた苦笑した。眉を下げた笑顔は、どことなく寂しそうに見える。
「もちろん、ここには何もないからね、退屈さ。楽しい気分になることもあまり無いよ。でもね、冥界というのはとても大事な場所だ。考え方によっては、世界は地上と地下にも分けられる。世界の半分なんだよ。それに、人は死んだら必ずここにくるだろう?」
再び手紙に視線を落としながら、ハデスは小さな子どもに語りかけるかのように言った。
「だから、冥府の統治人は絶対に必要なんだよ。良い人間はエリュシオン、悪い人間は地獄に送らなければならないし、もし間違って悪い人間がエリュシオンに行ってしまったらとんでもないことになる。私の仕事は、地味だし面白くないけれど、とても重要なんだ」
「それは、そうですけど」
「けれど誰もなりたがらないだろう、冥府の王なんて。……光も届かない地にいたがる神なんていないよ。本当は、私もこんな場所は嫌だ。だが、誰かがやらなければならないことなんだよ。だから、私が勤めているんだ」
でも、それをあなたがやる必要だってないのに。そんな考えが顔に出ていたのか、ハデスは「君は優しい子だ」と言って、今度は温かく微笑んだ。
「考えてごらん。ゼウスやポセイドンが、冥界の王を引き受けると思うかい? 特にゼウスが」
「……思いません」
「だろうね、ここには女性がいないから」
くすくすと笑い、ハデスは「だから、私しかいないだろう」と言った。
「私は元々活動的な方ではなかったからね。人の話を聞くのも好きだし、ここにいても時間はつぶせる。だから、これでいいんだよ。嫌々でつとまるほど、冥府の王は楽ではないんだ」
今更ながら、ヘルメスにはヘラが言った台詞がよく分かった。もしこの人が地上を統治していれば、争いごとは起きなかっただろう。戦いは嫌いそうだし、兄弟の中ではなんというか、一番まともそうだ。少なくとも、ゼウスのように女遊びをすることも、ポセイドンのようにキレて大暴れをすることもないだろう。
「でも、寂しくないですか」
「寂しいよ」
書き終わったのか、手紙をくるくると丸めながらハデスが呟いた。
「地上に行きたいときもあるけどね。やはり、そうそう行くわけにはいかない」
「なぜです?」
「冥府を長く留守には出来ないから。何が起きるか分かったものではないよ、ここは」
はい、とハデスはヘルメスに手紙を渡した。ヘルメスはそれを受け取りながら、「あの」と顔を上げて言った。
「俺、また来ます」
「え?」
「また来ます。えっと、俺は、ゼウスさまからこの世とあの世を自由に行き来できる力を貰ったんです。だから、今一番ここに来やすいのは俺だし」
「暗いところは嫌いではないのかい?」
「嫌いです、でも」
「君は本当に優しい子だ」
暗いところが嫌いだからこそ、彼みたいな神がこんなところにいるのが嫌なのだ。言外にそれを感じ取ったのか、ハデスはヘルメスの頭を帽子越しに優しく撫でると「けれども、無理はしなくて良いよ。こんなところに来たがる者はいない。君も嫌だろう?」と言った。
「無理なんて、してません」
ヘルメスはむっとして眉を寄せた。
「俺、ハデスさまともっと話してみたいと思ったんだ」
「私と?」
「はい。ゼウスさまとはゆっくり話をしたことなんてないし、他の神さまも、アポロンさまとはたまに話すけど、俺の話をじっくり聞いてくれる人なんていないし」
ヘルメスはちょっと俯いて、「それに、母さんの頭は母さんの父さんでいっぱいだから」と付け加えた。ハデスは「君のお母さんは、マイアだったね」と静かに言った。
「マイアの父親のアトラスは、今も天を支えているんだろう?」
「はい」
「すまないね……私たちの戦争の結果が」
「いえ、だって俺は、爺さんに会ったことないし……別に、それはあんまり気にしてないんです」
しかし、やはり母は別なのだろう。彼女はいつも、天の果てを見ながら涙をこぼしている。そんな母の気をひきたくて一時は頑張ってみたけれど、いない神には勝てなかった。いつしかヘルメスは、満足に母に構ってもらえないままに大人になってしまった。
考えてもみれば、ヘルメスが誰にでも気に入られるように振る舞っていたのはもちろん処世術でもあったのだけれど、それ以上に、誰かにただ無条件に愛して欲しかったからかも知れなかった。そんなことをぽつぽつと語ると、ハデスは頷きながら静かに聞いてくれていたが、やがてヘルメスをそっと引き寄せて抱き締めた。そして、頭をなでてくれる。
「あの親にして、よくもこんな子が育ったものだ。すまない、ヘルメス。ありがとう。今度、また来てくれないか。私も、きみとゆっくり話してみたい」
その抱擁は、まるで父のような、それでいて母のようなものだった。もしくは、もし兄がいたらこんな感じかなとも思った。叔父ではあるのだけれど、それ以上に温かい。体温にうっとりと酔いしれながら、ヘルメスは「はい」と頷いた。
それ以来、ヘルメスは用事を見つけては冥界に通った。アポロンには「どうしたんだ、急に」と驚かれたが、ハデスの話をすると「なるほど」と彼は頷いた。彼はどうやら、ハデスと何度か話をしたことがあるらしい。アポロンが生まれた時にはハデスは既に冥界を統治していたが、まだ統治の初めのころだったので何度かゼウスやポセイドンを相談するためにオリュンポスを訪れていたのだそうだ。
「あの方は、良い方だよ。冥府の王として、恐れられていることもあるけど」
「恐れることはないよ。すごくいい人だもん」
「はは、ヘルメス、随分と懐いたな」
花を摘んでいっても、何か面白い話を仕入れていっても、ハデスは喜んでくれた。また、何もなくても、ヘルメスが訪れるだけでもそうだった。彼と会い、話し、頭をなでて貰う度に、ヘルメスは信頼と情を深めていった。
「ハデスさま」
「ん? どうした」
「なんでもありません」