蒼き琥珀
<3>
「───こちらへの帰りがけに通った領地で、数ヶ月前に山津波が起きたって聞きました。小さな集落が一つ流されてしまったって」
ソファに腰を下ろしたハイデリヒがそう言うと、向かい側の席に腰を下ろしたエドワードがああ、と頷く。
「家を失った領民は気の毒だったけどな。領主が避難命令を出した後だったから、死人が出なかったってのが不幸中の幸いだな」
「領主の側近の方が仰ってましたよ。『陛下からのご助言がなければ、多くの民が犠牲になるところでした』って」
「助言?…オレは別に、大それたコトした訳じゃないぜ。地盤が緩そうな場所を、急いでピックアップさせただけだし」
秋の初めに長雨が続き、土砂災害の可能性を危惧したエドワードは、国内全域の土砂崩れの起きそうな箇所を調べさせ、簡単なハザードマップを作成して配布したのだ。
「でも、そうしてハザードマップを作っていたから、彼らが危険箇所を察知して、避難命令を早くに出せた訳でしょう?それはエドワードさんの英断だよ」
わずかに首を傾げて微笑したハイデリヒに、エドワードは照れ笑いで返す。
「まあ確かに、調べろって言ったのはオレだけど。最初に考えついたのは、オレじゃなくてアルなんだ」
「アルフォンスくんが?」
「ああ。───半分寝ながら、『最近雨が続くよな』って話をしてたら、『土砂崩れが起きたりしなきゃ良いけど』ってアルが言い出して」
それは長雨が続いていたある夜、弟の部屋を訪れたエドワードが、アルフォンスの腕の中でとろとろと微睡みかけていた時だった。
何の気無しに呟かれた彼のその言葉が、エドワードの国王としての意識をふと覚醒させた。
「1週間近く雨が続いてるんだから、そういう可能性も出てくるはずだって気づいて。じゃあどうすれば良いか話してたら、ハザードマップを作ってみるのはどうだろうってことになったんだ」
結局その後、おおよそピロートークとはほど遠い議論を交わして。
翌日の朝儀でエドワードが提案すると、それはあっさりと大臣達の賛成を得ることができた。
さすがは陛下、お目の付け所が違う、などと賞賛されたが、その案が弟とのセックスの後に、ベッドの中で思いついたものだということは当然ながら伏せておいた。
「あんなにすぐに役に立っちまうとは思わなかったけど。ちょっと素直に喜べねぇよな」
「領民を助けられたことは、喜ぶべきだと思うよ?…それに、山津波の後にエドワードさんが視察に来たことも、領民は喜んでましたし」
「あー、あれか……」
視察の時の状況を思い出したのか、エドワードが苦笑する。
「城ん中でふんぞり返って報告待つより、自分の目で確かめる方が確実だって思ったんだけど…アルが城に足止め食らって一緒に行けなかったのは、予想外だったなぁ」
「え、それじゃあまさか…」
「おう」
「やっぱり、ダメだったの?」
ハイデリヒの言葉に、苦笑したまま頷いた。
「───結局、眠れなくてさ……夜の間も、ほとんど仕事してた」
実を言うと、エドワードは弟の気配が近くにないとうまく眠ることができない、という少々厄介な”病気”を持っている。
ずっと小さな頃からそれらしい兆しはあったが、ここ最近…特に即位してからは、その症状が顕著に現れるようになった。
ただ、寝台を共にすることはできなくとも、同じ建物の中にアルフォンスがいれば、時間が多少かかっても何とか眠ることができる。
けれどひとたび不在を感じ取ってしまえば、必要以上に神経が冴えて眠りにつくことができない。
運良く眠りにつけても、悪い夢などにうなされすぐに目を覚ましてしまう。
だからアルフォンスを伴わなかった先日の視察では、ろくな睡眠が取れず、浅い眠りしかやってこなかった。
それで結局、夜の間も根を詰めるように仕事をして時間をつぶし、夢も見ないほど疲れ切って僅かな時間だけを眠るしかなかったのだ。
「アルフォンスくんに、症状のことは?」
「言ってない。今のところ、気づいてないみたいだし」
「でも、言っておいた方が…」
「良いのかもしれない。けど、なんとなく言えなくて…だって、アルに心配掛けちまうだろ?」
「エドワードさん…」
眠れない理由が、気の抜けない場所であるという警戒心の強さに因るものなのか、はてはアルフォンスへの過剰な依存に因るものなのかは、エドワードにもわからない。
ただ言えることは、エドワードがもっとも信頼している人物がアルフォンスであり、この弟以上に大切だと思える存在が彼にはいないということ。
「第一、これまでそうだったから、ずっとそうなのかは解らないし」
「それはそうでしょうけど、だったらなおのこと、話しておいた方が良いですよ」
「…そうかな?」
首を傾げて問うエドワードに、ハイデリヒは大きく頷く。
「この先、症状が治るにしろ治らないにしろ、事情を話しておけば、何かがあったときには対策が講じられるでしょう?」
「何か、って…」
「例えば…大臣達が今日みたいに見合いを持ち込んできたとき、傍で眠れるほど信頼できる人が見つかるまでは、って言うとか……ああ、でもそんなの言い訳でしかないし」
「!アルフォンス、なんでそれ」
驚いて黄金色の瞳を見開いたエドワードに、ハイデリヒは苦笑いで頷く。
「───実は先刻、この部屋へ来る前に、大臣とすれ違ったんです。写真のようなものを抱えてましたし、僕を見て随分驚いていましたから」
ウィンリィに診察して貰って、アルフォンスの私室へ向かう道すがら、ハイデリヒはその大臣と廊下ですれ違っていたのだ。
彼はハイデリヒの顔を見た途端、飛び跳ねるように肩を跳ね上げ、一礼だけすると逃げるようにその場を去っていった。
あれは確実に、大臣がハイデリヒのことをアルフォンスと見間違えていたに違いない。
「止めようと思ったんですけど、妙に逃げ足が早くて」
「そうだったのかぁ…」
「前にウィンリィから手紙と電話で聞いてましたけど、これで確か3回目ですよね?突っぱねられるって解ってるだろうに、懲りないですよね、あの人は」
「ホントに、何回断れば気が済むんだろうな。オレは妃なんかいらねぇのに」
肩をすくめて、エドワードはため息をついた。
国王である立場を考えれば、国家と王室の安泰のため、しかるべき家柄の娘と結婚し妃として迎え、子を成すことが望まれるが。
肝心のエドワードに、その意志が全くない。
───理由は、ただ一つ。