Don't cry for me Amestris
#4 Good night and thank you
「――今日でお別れにしましょう」
身なりを整えながら若い男が言うのに、ガウンを羽織ったままグラスを傾けていた女が動きを止めた。
親子とまでは行かないが、大分年の離れた男女だ。
それが、片方はベッドの中にいて、片方は鏡の前に立っている。
「…その冗談はエスプリがないわね」
「最後まで気の利かない男で申し訳ない、マダム」
少しはねた髪を直しながら、男は鏡越し、黒い瞳を細めて薄く笑った。申し訳ないなどとは欠片も思っていない顔をしていた。
「…誰? 誰があなたの新しい…」
「マダム。詮索はなしのお約束です。初めから」
ネクタイを締め終えた男は、ゆっくりと振り向き、上品な足取りでベッドに近づいた。そうして顔を近づけて、彼は囁く。
「――美しい女性は、最後まで美しいものです。そうでしょう? マダム」
平民から出世するには、人と同じことをしていたのでは不可能だ。だが軍功だけでもやはり不可能だったろう。
どちらかといえば裕福ではあったけれど、特権階級とは言い難い家の生まれであったロイ・マスタングが若くして出世できたのは、彼が立てた軍功もさることながら、また彼が真実有能であったことも忘れてはいけないのだろうが、勿論そういったことだけではなくて、彼が上に気に入られて取り立てられてきたから、というのが大きい。加えて彼は情報通でもあった。そうした情報もまた、彼が出世する上では欠くべからざるものであった。
ではそうした情報、あるいは上に気に入られるというのはどのようにして成し遂げられたのかといえば――
「…出してくれ」
疲れたように後部座席に乗り込んできた上司に、ハボックは「へいへい」と頷いて車を出した。まったく、逢引のための運転手なんて公私混同もいいところだと思わないでもないのだが、上司の場合これも必要な駆け引きのひとつと認識しているから、仕方ないことかと納得はしていた。
マスタングの出世を語る上で、彼を愛した、特に年上の女性達の尽力は忘れてはならないものだろう。
上官の妻、高級娼婦、夜会でお相手を務めた女性達、ホステス、秘書、果ては清掃の女性に至るまで。
勿論その全てと付き合ったというわけではないが、そうした女性達がマスタングのために尽くしたのは事実だ。アンタいつか刺されますよ、とハボックは思っているが、とりあえず今のところ、そうしたスキャンダルで彼が刺されたことはない。恐らくはうまくやっているのだろう。
今日もそうした彼を後援するマダムのひとりと会ってきたはずだ。
だが、そろそろ相手が本気になりそうで怖い、と呟いていたから、切れ時なのかもしれない。まさか本当に別れてきたとも知らず、ハボックはそう思った。
女の影が消えないマスタングに対して、そうした意味でやっかみをぶつける連中は多い。だが、彼の側近たちは、彼が真実そういったことが好きなわけではなく、使えるものを使っているだけだと知っているから、そうした思いはない。第一、彼の副官は女性だが、仕事の上でそういった公私混同をしたことは一度もないのだ。男性と仕事をするよりもよほど硬質な雰囲気がその二人の間には漂っている。
だが、最近彼は少し変わった、と腹心の部下達は思ってもいた。
そうだ。彼は、何かが変わった。いつから、というのではなく、気がついたら、というのが正しいのだが、少しずつそういった爛れた関係を清算し始めている。
勿論いつまでも使える手段ではないからそれは正しい判断だっただろうが、それにしても、何かきっかけがあってのことではないか、と腹心達は思ってはいた。そうして、彼のためにほっとしてもいた。
マスタングは見かけほど軽薄な男ではない。いつか無理が出るだろうと、誰もが心ひそかに案じてはいたのだ。
「…ラジオをつけてくれるか」
「アイ・サー」
時計を見ながらのロイの言葉に、ハボックは首を捻りながらラジオをつけた。やがてほどなくして、懐かしさの漂うピアノの音が聞こえてくる。
「…あれ、これってもしかして…」
ハボックはハンドルを切りながら瞬きをした。
最近ラジオではよくこの曲を聴く気がする。曲自体はそうそう変わったものではなく、民謡とか童謡のような雰囲気なのだが、それだけに懐かしく、郷愁を誘う。
「…エディのラジオの時間だ」
微かに楽しげな口調に、ハボックはミラー越し上司の顔をうかがう。彼は目を閉じて椅子に沈み込んでいたが、心なしか安らいだ顔をしていた。激務に追われる彼のそんな顔を見たのはハボックとしても初めてに近く、ああ、この人はこのピアノか、このピアニストかが好きなのだ、と直感的に閃いた。
ロイがこうまでして、なりふり構わず出世を目指すのには理由がある。彼はこの国を変えたいのだ。ひとにぎりの人間だけが富を独占するこの国を、ひっくり返したいのだ。
それを知っているのは彼の腹心の部下達だけで、つまりは自分達だけである。ハボックは、だからこそこうやってこの男についていくことを決め、そして躊躇ったことは一度もない。
「…どんなコなんですかねえ、このピアニスト」
不意に呟いたのがなぜかは解らない。ただ、ロイがこのピアニストに興味を持っているのを知ったから、だけだったといえばそうだ。だが。
「――元気な子、だな」
返ってきた答えに、ハボックは目を瞠った。
「大佐、…知ってるんですか?」
「エディ」は最近ラジオでピアノの番組を始めたピアニストだ。
だが、突然現われたその人物のことは、誰もよく知らなかった。ただ、誰に師事したわけでもなく、田舎から出てきて、まだ随分と若いらしい、ということしか知られていない。元々どこかの店で弾いていたのを、誰かラジオ会社の社長だかプロデューサーだかが聞きつけて、どうにか口説き落としてこの番組が始まったのだと、そういったエピソードは酒を飲んでいたら誰かが言っていた。
ロイは薄く、自嘲気味に笑って、けだるげに髪をかきあげた。
「…とても、きれいな子だよ。眩しくて…」
その口調がまるで夢でも見ているかのようだったから、ハボックはそれ以上声をかけるのをやめた。その先は、恐らくは踏み込まれたくないだろうから。
だが、その晩のやりとりは彼の記憶に残った。
それがやがてロイとエドワードとを結びつけることになっていくのだが、まだ彼はそんなことは夢にも思わないでいた。
エドワードの日常は、思わぬ方向へと変わり始めていた。
元々の目的は母の仇を探し出すことだったが、デビルズネストで働いているうちに、ふとしたことでピアノを演奏することになり、それが元で、今ではラジオ番組にまで出るようになった。勿論、目的は薄まりなどしないけれど、それでも、どこかで感覚が変わってきているのは確かだった。頑なだったものが少しずつほぐれていったのは、やはりこの街での生活が大きな原因だろう。
そろそろ春が近い、とはいってもまだ寒い通りをいつものように買出しで歩いていると、黒いコートが視界に入ってきてエドワードは目を瞠った。そうして、無意識にほんの少し頬を緩める。
――ロイとはあの後、数回話をした。いずれも朝の買出しの時間だ。
作品名:Don't cry for me Amestris 作家名:スサ