Don't cry for me Amestris
ラジオに出るんだぜ、と報告もした。その後はしばらく会っていないから、今日は聞いてくれたかどうか聞いてみよう、そんな風に思いながら近づく。
「おはよ」
照れ隠しでどうしてもぶっきらぼうになってしまうものの、相手がそれを咎めたことは今のところない。ロイは、嬉しそうな顔をしてエドワードを振り向いた。
グリードともロアともドルチェットともエンヴィーとも、シグともメイスンとも、父親ともアルフォンスとも違うその眼差しに、エドワードの頬は寒さばかりでなくほんのりと赤くなるのだけれど、それがどうしてなのかはまだわからないでいた。
「おはよう。…ラジオ、聞いているよ」
「…ほんとに?」
ついつい疑うように上目遣いで尋ねれば、本当だ、と頷かれた。
「レコードが出たら、買うよ」
「レコードって、そんな。大げさな」
エドワードは買い物袋をぎゅっと抱きしめながら、恥ずかしげに言った。
「大げさではないさ。私の周りにもファンはいるよ」
「ええ…、嘘だあ」
エドワードは恥ずかしくなって視線をそらした。朝の公園から鳩が飛び立っていくのが見えた。
「…あんたは、好きな曲とか、ある?」
「え?」
不意に思い立って聞いてみれば、ロイは驚いたように目を見開いた。そんなに意外なことを言ったつもりはなかったので、エドワードもまた驚いてしまう。
「いや、あの、ほら。あんまりちゃんとしたのは、オレ知らないんだけど」
「…私は面白みのない男で。音楽なんて、あまり知らないんだ」
ロイは困ったような、けれどとても嬉しそうな顔をして、小さな声で続けた。
「覚えているのは子守唄くらいだよ。…好きなのも」
「そっか。うん、わかった」
「弾いてくれるのかい?」
エドワードは不意に買い物袋をロイに押し付けて、両手を鍵盤に載せるような格好にして目を閉じた。ロイはといえば、預けられた買い物袋の見た目以上の重さに眉をひそめながら、黙ってエドワードを見る。
やがて、幾許かの後に。
「……、」
ささやきのような鼻歌のようなメロディが聞こえてきて、それをなぞらえるようにエドワードが指を動かしていた。それは微かな動きだったけれど、確かに今彼女の中でそれが奏でられているのだろう、ということがわかって、ロイはただ食い入るようにその光景を見つめていた。
子守唄は自分の知っているものとは違う音律のようだった。彼女が聞かされていたのが、きっとそのメロディだったのだろう。
不意に、エドワードは指を止めて微笑んだ。ロイは息を止めて少女を見る。彼女は、短く口にした。
「――聞いて。来週」
ロイから買い物袋を受け取りながら、エドワードは照れくさそうに首をすくめた。
「うまく弾けるかわからないけど…あんたにあげるから」
ロイは目を瞠って言葉を失った。
「――じゃあね!」
たっ、と駆け出した小柄な背中を、ロイは言葉もなくじっと見つめていた。自分の中の何かが洗われていくのを感じながら。
「クーデター?」
エドワードは結局、たまにだが、店にも顔を出すようになっていた。ロアや給仕の人間の手伝いが主だが、グリードに言われれば何かを弾くこともある。
そうすると、色々な話が耳に入るようになる。
相変わらず母の仇の情報などは何もなかったが、政治の話やセントラルの景気の話などはよく聞こえてくるようになる。
そんな中、頻繁に聞くようになった名前がある。
マスタング、という若い大佐の名前だ。
その夜も皿を出した時にその名前を聞いた。その名前は、若手の軍人が集まってどうもきなくさい雰囲気だ、という話に含まれていた。
エドワードはそのマスタングという大佐のことはよく知らなかったが(というよりもよく知っている軍人などがそもそもいないのだが)、なんでも若くしてその地位に着いた平民出の軍人で、下の人間の信望が厚いのだという。ただどうにも女性関係が派手な男のようで、…その部分はやっかまれてもいるようだが、だが、それでもそれはさほどでもないらしい。むしろ、平民出の男が上流階級のマダム達を手玉に取っている、というので面白がられてもいるらしい。…エドワードには、そのあたりはよくわからなかったけれど。
「クーデターねえ、…でもどうせ軍人の中だけで終わるんだろ」
「そうそう、俺らの生活なんかかわんねえって」
最後にはそこに落ち着いた話だったが、なぜかエドワードの印象には残った。マスタング大佐、という名前を胸に落として。
「エディ」はピアノの演奏をする他は、今まで喋ったことが一度もなかった。喋ることがなかったというのもあるし、気恥ずかしかったのもある。演奏だけでいいと言われていたのもある。勿論、デビルズネストの連中との関係もあった。
だがその日初めて、少女は口を開いた。
風変わりな、ひとりの軍人のために。
その日ロイは軍部の施設に詰めていた。単に仕事が溜まっていたのだが、執務室にひとりきりなのでリラックスはしていた。
持ち込んだトランジスタラジオをつければ、少女のラジオ番組の開始数分前だった。チューニングをあわせて、しばし待つ。
――ロイは、あの少女に惹かれている自分を知っていた。
だが、例えば他の女にするように接したいとは一度も思ったことがない。偶然に出会ったあの少女は、昔はきっとロイも持っていた純粋さのようなものを集めて出来ているように見えて、ロイには眩しかったのだ。
だから、時折偶然に出会って話が出来ればそれで十分すぎるほどだった。恋とか愛とか、まして肉体的などうこうなど、欠片も想像したことはなかった。ただ顔が見られれば、話が出来ればそれで十分で、それだけで随分ときれいな気持ちになれるのだと気づいていた。救われるというのが、一番近しいのかもしれない。
しかし、だ。
『――はじめまして』
番組の開始とともに、普段のパーソナリティではない、ひどく若い、むしろ幼いとでもいいたくなるような声がして、ロイは息を飲んだ。
エディの声だったから。
『えと、初めまして、ってのも変かな。ええと、…毎週聴いてくれてありがとう』
「……」
ロイはボリュームを上げた。息をひそめて、少女の声を聞く。
恐らく今、この時間帯にラジオの前で同じことをしている人間は多かっただろう。だがロイの真剣さは、彼がこの少女を知っていることに由来している。それはきっと大きな違いだ。
『今日はどうしても言いたいことがあったから、喋らせてもらいました。ええと…今日は、聞いてくれてるか解らないけど…』
「――聴いてる、決まってるじゃないか…」
ロイはぽつりと反論した。ラジオの前で。目の前にあの少女がいるかのような気持ちで。
『…あるひとのために。子守唄を』
そして、ラジオを通してなお恥ずかしそうな声が告げた言葉に、ロイは目を閉じて瞼を押さえた。
程なくして流れてくる旋律は、初めて聴くのに懐かしい曲だった。
作品名:Don't cry for me Amestris 作家名:スサ