Don't cry for me Amestris
鞄をぎゅっと抱きしめて思わず見とれたエドワードの背中で、息を切らせていた女性が小さく笑った。
「セントラルは、初めてなの?」
エドワードは振り向いて、こくりと頷いた。
「…旅行? …働きに来たの?」
続けて問いかけられて、エドワードの表情が困惑したものになる。旅行ではないが、仕事でもない。母の仇を探しにここまで来たのだから。
だが、そんなことは、わざわざ話すことでもないだろう。
「…ん。働きに来た」
「そう。…なら、気をつけて。助けてくれたのは嬉しいけど、これからは、見ない振りをしなくちゃだめよ」
「…え?」
困ったように笑って、エドワードよりは年上だけれど二十歳になるならずだろう娘が、少女の頭をそうっとなでた。
「セントラルはあたしたちみたいな貧乏人には冷たい街よ。…金持ちと軍人がいばりちらしてて。…何をされても、泣き寝入りするしかないのよ」
そうしないともっとひどい目に遭うから。
諦めきったその声に、エドワードは衝撃を受けた。
エドワードの育った街も、田舎だったからそういった身分格差のようなものは厳然として存在していたが、少なくとも、そこまで汲々ともしていなかったように思う。もう少し自由だってあった。
「…なんて。脅かしてごめんね。…楽しいことも、いっぱいあるよ」
「…ほんとに?」
「うん、ほんとう。あたしたちにも楽しいことはいっぱいあるし、ね。働き口だってないわけじゃないもの」
「……」
「…じゃあね。ありがとう」
こくりと頷いたエドワードに、娘はもう一度にこりと笑った。
そういえば名前も聞いていなかった、と思ったのは、その背中が見えなくなってからだった。
そのまましばらく、何となく歩き出せずにエドワードは街を眺めていた。見ていると、暮らしぶりの豊かさ貧しさ、その格差は目に明らかで、複雑な気持ちになった。ストリートチルドレンのような連中も見えるし、そうかと思えばさっきの軍人(なのだとその頃にはエドワードも理解していた)のようなのが闊歩している。
華やかでも楽しいばかりではない。むしろ華やかな分闇が濃いのかもしれない。エドワードはそんな風に思った。
そろそろデビルズネストにいかなくては、そう思いながらも何となく歩き出せずにいたエドワードに、お嬢さん、と不意に声がかけられた。
何しろさきほどは「坊主」と言われたエドワードだ。顔立ちだけならそんなこともないのだが、服装や行動が少年らしいので、お嬢さん、なんて呼びかけられたことは生まれてこの方一度もなかった。だから、自分のことだとは思わなかったのだが、…おそまきながら、その橋の上には自分ひとりしかいない、ということに気づいて、ああ自分か、と声のする方を振り向いた。
「……?」
そこに立っていたのは、まだ若そうな、黒いコートを羽織った男だった。恐らく顔立ちも整った男なのだが、エドワードはあまりそうしたことに興味がない方だったので、どちらかといえば、その自然すぎる気配や無駄のない体躯と動きにこそ目を引かれた。
普通のその辺の街の人間ではないな、と悟り、エドワードは顎を引く。
「そんなに警戒しないでくれたまえ」
可愛い顔が台無しだ、などと嘯いて、彼はエドワードの隣に並んだ。そうして、ちらりと彼女を見た後、それまでのエドワードと同じように街を見晴るかす。
なんとなく変な男だ、と思いながらも、エドワードはその場を離れられなかった。
「…この街を、どう思う?」
「え?」
唐突な質問に、エドワードは瞬きした。
だが、見つめてきた黒い瞳に吸い込まれるような気持ちになって、薄く唇を開いたまま男を凝視してしまう。
そんなに見つめられると照れるな、という声ではっとして顔をそらしたが、エドワードの表情こそ照れを隠すために何か微妙なものになっていた。少女はきゅっと手を固くして、ぶっきらぼうに答える。
「…今ついたばっかりだから、よくわかんない」
「そうか」
「…でも変な街だ! …誰もお姉さんのこと助けなかった、オレそういうのわからない」
男は瞬きして、そうしてエドワードの方を向いた。
「お姉さん?」
「なんか…、絡まれてた。どうして助けないんだろ、困ってる人がいたら助ければいいのに」
「…そうだな」
男はくすりと笑って、もう一度正面を向いた。
「皆が君のようならいいのにな」
「…なんだそれ。…初めて会ったガキだからって馬鹿に、」
「好ましいという話だよ」
「――――」
エドワードはぽかんとして口を開けた。好ましい?
「…この街は変な場所だよ、確かに、君の言う通り」
「…あんた、何者?」
男はそれには答えず、右手を差し出してきた。警戒してそれを見つめるだけのエドワードに、男は困ったように笑った。
「握手だよ。何も変なことをしようというのじゃない」
「…」
変なことってなんだろ、と不思議に思いつつ、エドワードは男の手を恐る恐る握った。彼はそれを握り返して、そうして、
「ありがとう」
「……?」
礼を言われる理由がわからなくて、エドワードは首を捻る。だが、男は嬉しそうに目を細め、そっと手を離した。
「君みたいなまっすぐな子がいたなんて嬉しい。…ここに染まらないでそのままでいてくれたら、もっと嬉しいが」
「…あんた…?」
何者なんだ、もう一度そう問おうとして、エドワードは固まった。さきほどの連中と同じ青い装束の男が小走りに駆けてきたからだ。まさか追ってきていたのだろうかと身構えたエドワードの前に、男が半身を出して視界を塞ぐ。
そして、エドワードは軽く息を飲んだ。
「大佐、こんなとこにいたんスか!」
背の高い軍人は、さきほどの連中よりずっとまともそうで、人好きのする顔をしていた。だが軍人は軍人だ。しかし、その軍人が呼びかけた、この男は、
「…たいさ?」
軍に詳しくないエドワードでも、大佐というのが高い地位であることはわかる。驚きに目を見開いたエドワードにちらりと困ったような表情をのぞかせた後、男はもう振り返ることもなく背の高い若い軍人の方へと歩いていってしまった。だから、エドワードの呟きにはなんの答えもなかった。
「探しましたよ、まったく! 中尉がお怒りですよ!」
「それは困ったな。戻るか」
「そうしてください。…ちょっと、アンタ、職務中になにナンパしてんすか!」
「失礼なことを言うな。道を聞いていただけだよ」
「それをナンパというんじゃないですか、大佐の場合」
芸人のようなやりとりをしながら歩いていく二人の男の背中を見送って、エドワードはただ呆然とするしかできなかった。
色々回り道した結果、エドワードがデビルズネストについたのは、汽車がついてから二時間も過ぎてからのことだった。
「…ここ?」
酒場、というのが一番近い建物だった。確かにイズミは商売をしている店だとは言っていたが、商売というか…。
ダブリスにもいわゆる繁華街のような場所はあって、そこには近寄らないようにとよくイズミにも、イズミの夫にも、イズミの家の住み込みの店員にも言われていたのだが、この店はまさにそういった場所に近しい雰囲気をもっていたから、エドワードは怪訝に思ってしまった。どういうことなんだろう、と。
作品名:Don't cry for me Amestris 作家名:スサ