無題if 赤と青 Rot und blau -罪と罰-
罪と罰3
ああ、急がなければ。
その想いだけが、プロイセンを急き立てる。
時間が無い。あと少しで、この身体の自由は無くなる。その前にあの王の棺を…。
プロイセンはベルリン陥落が近づいた際は上層部の混乱に乗じて、ポツダムのガルニソン教会から二つの棺を運び出すように密かに腹心の部下に命じた。
デューリンゲンの岩塩窟に王の棺を隠せ。
…と。しかし、デューリンゲンはソ連の占領下にある。それを安全なところに場所を移動しなければ。見つかればただでは済むまい。この戦争には何にも関係の無い王の安らかな眠りを妨げることだけは避けたい。…だが、自分が動くには危険が大きい。見張りがないとはいえ、ここを動く訳にはいかなかった。
「…どうされました?」
味気の無いコーヒーの注がれたアルミのカップをテーブルへと置いた青年がプロイセンを気遣うように伺う。プロイセンは視線を上げた。
「…へルマン、」
青年は微笑する。
「何か心配なことでも?私でよければ、お聞きしますが」
穏やかな笑みにプロイセンは息を吐く。不思議とこの青年がそばにいると苛立ちや焦燥が嘘のように無くなり、冷静になれた。
「…ベルリン陥落前に、俺はデューリンゲンの岩塩窟にガルニソン教会から親父とヴィルヘルムの棺を運び出し、隠すように命じた」
「…棺を?」
「空襲も酷かったし、占領下におかれれば破壊されかねないと思ってな。…棺は無事だが、デューリンゲン、ザクセン、ザクセン・アンハルト、メクレンブルク・フォアボンメルン、ブランデンブルク、ケーニヒスベルクはロシアの占領下に置かれることがほぼ決定だ」
「…ベルリンもですか?」
「ベルリンは四カ国統治になりそうだ。首都だしな」
「…それは」
青年は言葉を切り、プロイセンを見やる。プロイセンは赤を細めた。
「…もし、ベルリンがロシアと残りの三国と二分割されても大丈夫なように手は打った」
左胸に指を這わせたプロイセンに聡い青年は全てを察して眉を寄せた。
「…血の匂いはその所為ですか?」
「ついでに怪我ももらってきた」
「ご自身の体調も優れないのにですか」
「怪我には慣れてる。これぐらいどってことない」
青褪めた顔で笑うプロイセンに青年は小さく溜息を吐いた。
「あなたの身を案じるものがいることを忘れないでください。あなたを慕うものは多い。あなたが失われることがあってはならない。そう思っているのは私だけではないのですから」
「…まだ、そう言われるのは嬉しいもんだな」
柔らかく美しかったあの手を思い出す。祈りを込めたキスを頬に受けたのは随分と昔のことだ。プロイセンは視線を伏せた。その伏せられた睫が落とす影を青年は見つめた。すべてはドイツの為なのだろう。解っていてもどうしようもないもどかしさを感じて、青年は口を開いた。
「…結局、あなたは彼の為に生きることを選択するんですね」
「…あいつは俺の王だからな。生かすためなら何だってするさ」
プロイセンは顔を上げた。
「あいつにしてやれることは手を打った。…今、俺がやらなければならないことは俺のために生き、死んだ者の眠りを妨げないことだ」
それに青年は眉を寄せた。
「どうなさるおつもりですか?」
「…棺を今の混乱に乗じて移動する。だが、俺がここを動くわけには行かない。クーデターを起こすじゃないかって危惧されそうだしな。それでだ。棺の移動をお前に頼みたい。そのまま、棺と一緒にお前もここを去れ」
プロイセンの真っ直ぐに見つめてくる赤に青年は視線を伏せた。
「…大役ですね。…私には荷が重過ぎます。…それに、」
プロイセンは今度こそ自分を安全圏に逃がそうとしている。その気持ちが嬉しくもあり、悲しくもある。青年は言葉を濁す。「ja」と素直に返事が出来ない。
「お前にしか頼めない。頼まれてくれるな?」
「…従えないと言ったら?」
青年は赤を見つめ返す。プロイセンは微動だにせず青年の瞳を見つめる。
「お前しかいない。お前だから、俺の大事なひとのことを頼めるんだ。ヘルマン」
プロイセンの信頼を込めた言葉と真摯な赤に青年は諦めの溜息を吐いた。彼が望むなら自分はそうするしかないのだ。
「…解りました」
その言葉にプロイセンは詰めていた息を吐き、笑った
「…ダンケ」
礼の言葉に青年は視線を伏せた。
「…上官は酷いひとだ」
顔を歪め小さく、呟く。きっと、もう二度とこの赤を見ることが出来なくなる。そう思うと切なくなるほどに辛かった。この赤が自分の故郷そのもの、一族が愛し、忠誠を誓った古き良きプロイセンそのものだった。別離は故郷を追われるのと変わりない。この地に生まれ、この地に還る。それをプロイセンは許さないと言う。新しい地で生きろと。青年の呟きにプロイセンは視線を伏せ、薄く笑んだ。
「…お前は俺に良く尽くしてくれた。もう十分だ。最後まで、俺に付き合う必要はない。家族の元へ行け。そして、幸せになれ。それが俺の望みだ」
若き日の王に青年は似ていた。そして、自分を見つめる青年の青い瞳は晩年にあった王が自分を見つめるやさしい色をしていた。だから、死を望んでいた自分は生きることを選べた。もう何もかもどうでもいいと投げ出して、死ぬつもりでいた自分を引き止めてくれた。…忘れてしまっていた、生きる為に足掻く事を思い出させてくれた。…青年のような国民の為に自分にもまだ出来ることがある。なら、その為に自分は生きようと思う。…ケーニヒスベルクの陥落の前夜、青年との会話が思い出せてくれた。自分の為に尽くして死んで逝った者は、あの王だけではなかった。色んな人々が自分を愛して生かしてくれた。それに報いるためにも、生きて、守っていく。
「今まで、有難う。…お前がそばにいてくれて、良かった。今度はどこかでお前を待つ者を、お前は幸せにしてやれ」
(ああ、やっと俺は素直に笑えた。心から)
青年はプロイセンを見つめる。プロイセンの慈愛に満ちた優しい眼差しは幼い頃、見せてくれたやさしい顔だった。
(…もう、私がいなくても、大丈夫なのですね…)
青年は目を閉じる。東部前線に立ったあの日からずっと、危険な場所に立ち続け、死に急いでいるように見えた。それを引き留める為だけに自分はそばにいた。守るものがあれば、プロイセンは死を選ばない。そんな気がした。…でも、もう大丈夫だ。
「…解りました。…でも、いつか、必ずあなたのもとへ帰ります。…それだけは許してください」
今は、別れる。でも、自分の故郷は彼自身なのだ。眠るなら、その腕に抱かれて、最期の眠りに尽きたいと願う。プロイセンはそれに笑うと、頷いた。
「ああ、いつか、また必ず」
「はい」
青年は頷く。「必ず」と言ってくれた。その言葉だけで、今は十分だ。青年は一度、視線を伏せると、プロイセンを見つめた。
「…それで、私はどう動けばいいのでしょうか」
「それなんだが、お前一人で運び出すのは難しいな。他に手があればいいんだが…この様じゃな」
自分を慕っていた者の大半は戦争で命を落とした。暗殺計画に加わり、処刑された者もいた。プロイセンは悲しみを堪えるように目を閉じる。
「…私に当てがあります。手伝ってもらえるか訊いてみましょう」
作品名:無題if 赤と青 Rot und blau -罪と罰- 作家名:冬故