タナトスあるいはヒュプノス
終業時間を4時間もオーバーしてロイはようやく司令部を後にした。
ハボックが運転手を務める軍高官用車両に乗って10分の自宅へ着くと、窓に明りが灯っている事に、じんわりと幸福感が胸に去来した。
帰る家に誰かが待っているのはこんなにも嬉しい事なのかと、ロイは改めて思い至っていた。
「では明日。御疲れっす」と、くわえ煙草のハボックが告げる言葉に片手を軽く上げて返事を返すと、ロイは自宅の扉を開けた。
室内には良い香が漂っているが、何の音もしてこない。
「まだ眠るような時間ではないはずだが・・・・」
軍服の襟を緩めながらリビングを覗くが、灯りは点いているものの、目的の人物の姿は無い。
漂う香りを追いながらキッチンに入ると、レンジの上に鍋がかかっている。
「何だ?」
食欲をそそる香りを不思議に思い、ロイはおもわず鍋の蓋を開けてみた。
中にはデミグラスソースに浸かったロールキャベツらしきものが入っていた。
「鋼のがこれを作ったのか?」
ロイの自宅には3日おきに家政婦が入り掃除や洗濯をしてくれるが、料理まではしていかない。
となれば、これは当然エドが作った事になるのだが、常の彼の行動と鍋の中身が結びつかなかった。
「さて、この料理を作ったコックは何処に居るのかな」
上着を脱いでリビングのソファーの背もたれにかけると、錬金術で封印していた書斎へと足を運ぶ。
探していた人物は案の定、そこで本に埋もれていた。
床に片膝を立てた状態で座り込んでいる彼の周りには、その姿を隠さんばかりの本がうず高く積まれている。
“まさか、これだけの本を今までの時間で読んでしまったと?”
集中力の凄さには定評があったが、これ程とは思いもしなかったロイは、吃驚してそのまま暫くエドを見続けてしまった。
小さに灯されたランプに照らされるハニーゴールドの瞳は、それより少し濃い目の色合いをした睫が落とす影の下で、一心不乱に文字を追っていた。軽く開いた唇が小さく動いている。無意識に読んでいる物を声にしているのだろう。ページを繰るスピードが速い。
“天才の名を欲しいままにしている彼だが、この集中力と努力、それに天性のカンがその名を作っているのだと誰が知るだろう”
こんな一面を見ても愛おしさが募ってくる。
ロイは書斎の入口に寄り掛かり、エドがその存在に気付くまで見続けていた。
「えっ?あんた、いつの間に帰って・・・って、今、何時だ?」
読み終えた本を積み上げた山の上に乗せようとして、ロイの存在に気が付いたエドは、瞳を転げ落としそうな程見開いて驚くと、慌てて立ち上がろうとして足が上手く動かずにくず折れそうになる。
ロイは数歩でエドの側まで行くと、腰に手を差し込んで倒れるのを防ごうとした。が、手前の本につまずき、エド諸共に本の山に突っ込むように転がった。その際にエドを胸に庇うようにしたのだが、痛みより他の事に驚いてしまった。
“うわっ!なんだ?この細さは?!”
常々大立ち回りをしてるエドの身体は、頑丈に出来ていると思い込んでいた。
しかし、実際に触れてみると、華奢と言って良いほどで、同年代の少女の方が太いかもしれない。
機械鎧の重さを差し引いたら、痩せ過ぎ位の体重に、ロイの眉間に皺が寄る。
「あ、ご、ごめん。ありが・・・」
「君!夕食は摂ったのかね」
不隠な空気を孕んだ声がエドの謝罪を遮って、ロイの口から零れた。
「へっ?夕食?いや、摂ってねぇ。この文献の量を見たら堪んなくなって、飯どころじゃ」
「バカモノ!!」
いきなり雷が落とされ、エドは無意識に首を竦める。
「食事は健康の基本だろう!身体が資本の放浪をしていながら、何なんだ!君は!!」
反論したくても、師匠と同じ様な事を言われ、更にそれが正論なだけに、エドは何も言えなくなってしまう。
「キッチンに作ってあったあの料理は食べなかったのか。あんなに美味しそうに作っておいて」
「あ〜〜あれ・・・。食べようって言うより、あんたに食べさせようかなって思って作ったもんだから・・・さ」
「なら今から一緒に食べよう」
「え〜〜?今からぁ?夜に食べると太・・・」
「君は太った方が良いんだ!禄に食べないから、いつまでも小さくて細い」
「小さいって言うなぁ!!」
「言われたくなければ、しっかり食べろ!!さぁ」
胸の上にエドを乗せたまま口論をしたロイは、有無を言わさずエドを抱き上げると、崩れた本の山には目もくれず、キッチンへとずんずん歩き出してしまう。
「ああ〜〜貴重な文献」
「本は逃げていかない!腐らない!放っておいても問題ない!!今の問題は君の身体の方だ!!」
じたばた暴れる身体を事も無げに拘束してロイはキッチンに行くと、ダイニングの椅子にポイッとエドを座らせた。そして直ぐに鍋の中身を深皿に取り出そうとして、エドからストップがかかった。
「駄目だって。そのままじゃ。もう一煮立ちさせてからじゃないと美味くないんだよ。それに付け合せのサラダやパンも・・・」と、素早く椅子から下りてきてロイを押しやると、「あんた、リビングの方にでも行って待ってろよ。10分もすりゃ完成だからさぁ」と、包丁を取り出して野菜を刻みだした。
手馴れた動作に感心しつつ、「何か手伝える事はないかな。ただボーッとしているというのも、少々・・・」と言ってみる。エドは手先から目を離さないまま「なら、カトラリーでも並べといて。皿はこっちで選ぶから」と言う。
「そうか。ならワインでも開けるか」
「あ〜〜。そうすればぁ?俺は酒、飲めねぇから、勝手に紅茶淹れっけど」
「私の分も淹れてもらいたいが・・・」
「了解!」
ロイは指示された作業をするが、あっという間に手持ち無沙汰になり、見るとはなしにキッチンに陣取る少年の姿を追ってしまう。
小柄な身体が小気味良くくるくると動き回っている。
刻んだ野菜を大皿に乗せ、手早く作ったドレッシングをかける。鍋を暖める傍ら、1?ぐらいの厚さに切ったバケットをローストし、なにやら塗った後に再びローストしている。ケルトから沸騰した湯をポットとカップに移して暖めると一旦捨て、ティースプーン2杯分の茶葉をポットに入れてから湯を注ぎ、厚布で包んで蒸らす。
“随分と繊細なのだな”
常の荒削りで大雑把に見える行動と真逆な細かさに、改めて驚いたロイなのだった。
準備は本当に10分で終了した。
深皿に盛られたロールキャベツには生クリームがかけられ、サラダは色とりどりの野菜でまるで花畑の様になっている。バターを塗られたバケットはこんがりと良い香りで鼻を擽り胃を絞る。
「おら!終了〜〜っと。冷めないうちに食べようぜ。って・・・あれ?ワインは?」
エドはグラスが無い事に小首を傾げる。
「いや、今晩はやめておく。君の作ってくれた料理の味をワインでわからなくするのは勿体無いんでね」
にやりと笑って見せると、頬に朱が走った。
“こんなにも素直な性格だとは思わなかった”
ロイは、改めて己がいかにエドワードを理解していなかったのかを認識する。
作品名:タナトスあるいはヒュプノス 作家名:まお