夏の終わりの大事件
なぜそこで噴き出すことがあるのかと、何となく釈然としないながらも、ルートはうなずいた。
「今回は特に入院する必要もありませんから、点滴が終わったらすぐに帰宅して頂いて結構です。熱もじきに下がるはずですから。もし何かあったらまたすぐに連れて来てください」
「うむ、世話になってすまなかったな」
いかにも心配そうな顔をして、眠っているフェリシアーノの顔を見たルートは、おもむろに医師の方に向き直って礼を述べた。
医師はまた少し微笑んで、こちらもフェリシアーノの方をちらっと見た後、
「どういたしまして、これが私の仕事ですから。それでは、ヴァルガス君をお大事に」
「ああ、ありがとう」
待っている間に薬局へフェリシアーノの薬を取りに行き、戻ってきてベッドの横にある椅子に腰を落ち着けると、ルートはまだ眠っている彼の顔を見ながら、つぶやくようにそっと話しかけた。
「心配したぞ、フェリシアーノ・・・良かったな、たいしたことなくて。一時は心臓がつぶれるかと思ったぞ」
汗で額に貼りついた茶色の前髪をそっと掻き揚げてやる。
そのとき急にフェリシアーノが何か話しかけてきた。
「・・・う、う〜ん、るーとぉ・・・どこいくの・・・?まって・・・おねがい・・・おいてかないで・・・」
驚いてフェリシアーノの顔をよく見るとまだ眠っているが、さっきと違って苦しそうな表情をしていた。何か嫌な夢でも見てうなされているようだ。
「・・・安心しろ、フェリシアーノ。どこにも行きやしない。俺はここにいるぞ。いつもお前の側にいて、お前を守ってやる」
ルートはそう言いながら、フェリシアーノの空いているほうの手をしっかりと握ってやった。
しばらくするとフェリシアーノは眠ったままで安心したような微笑を浮かべた。
「・・・おれの・・・こと・・・すき?」
「えっ?」と一瞬、戸惑ったものの、ルートは我知らず微笑んでいた。
「・・・ああ、好きだぞ」
そう答えながら、そっとフェリシアーノの頬を掌で包み、軽くキスしてやる。そして、また椅子に座りなおしたが、ようやく緊張の糸が切れたのか、ルートは急に疲れがどっと押し寄せてきたような気がした・・・。
「──ヴァルガスさん、気分はどうですか?」
あれからどのくらい時間が過ぎたのか、ベッドの周囲に掛けられたカーテンが引かれて、やや年配の女性の看護師が入ってきた。どうやら点滴の終わる時間を見計らってきたらしい。
「あらあら、ルートヴィッヒ隊長ったら!」
カーテンを開けた看護師の目に入ったのは、まだぐっすり眠り込んでいるフェリシアーノと、彼の空いているほうの手をしっかりと握り締め、椅子に座ったままでベッドに突っ伏すようにして眠っているルートヴィッヒ隊長の姿だった。
「隊長も疲れていらっしゃるみたいね」
看護師はそう言って、ちょっと微笑むと、フェリシアーノの点滴の針をはずしにかかった。
「・・・あれっ?おばさん、誰?」
フェリシアーノは腕がかすかにチクリとする感触で目が覚めた。茶色のくりくりした瞳を見開いて看護師の顔を見つめて、最初に発した言葉がこれだった。
「まあ、初対面のレディーにおばさんはないでしょう?」
ちょうどフェリシアーノの母親くらいの年配に見える看護師は、笑いながら彼にそう話しかけた。
「ごめんなさい、お姉さん」
どんな相手をも魅了せずにはおかない人懐っこい天使の笑みを浮かべて、そう答えるフェリシアーノに、看護師はまた笑った。
「素直な坊やね。気分はどう?」
「うん、だいぶ良くなったよ。・・・えーっと、ところでここはどこ?病院みたい?」
フェリシアーノはまだ目をぱちくりしながら、少し首を動かしてあたりを見回した。
「ここは軍の病院よ。あなたが急に倒れたものだから、ルートヴィッヒ隊長が急いであなたを連れてきてくれたのよ」
「・・・そっかあ。そういえば外で訓練中に、急におなかが痛くなって、冷や汗が出てきて、立っていられなくなったんだっけ・・・」
フェリシアーノはだんだんと自分が倒れたときのことを思い出した。
──そうだ、あの時、ルートがすぐに走ってきて、俺のことを抱き上げて・・・。すっごく心配そうな顔で、心配そうな声を出してた・・・。
──どうした、フェリシアーノ!?
──しっかりしろ、心配するな!俺が付いてる。すぐに病院に連れてってやるからな!
って・・・確かそう言ってた。その後は苦しくってあんまり覚えてないけど・・・そういえば、ルートはどうしたんだろう?
「ねえ、ルートはどこ行ったの?」
フェリシアーノの素直な問いに、看護師は笑ってこう答えた。
「隊長なら、ほら、そこにいるわよ。あなたの手を握ってる」
看護師の指差した先は、ベッドを挟んで彼女の立っている反対側で、ルートがまだフェリシアーノの手をしっかり握り締めたままで眠り込んでいた。
「ルート?」
ようやくベッドの上に起き上がったフェリシアーノは、まだ彼の手を握ったままで同じベッドに突っ伏しているルートに話しかけた。
「ん・・・?フェリシアーノ?」
ルートはその声でようやく目が覚めたらしい。
「──ああ、俺も眠ってしまったのか」
ベッドに起き上がっているフェリシアーノに気がついたルートは、彼には珍しく微笑みを浮かべ、
「大丈夫か?気分はどうだ?少しは良くなったか──」と彼に話しかけた。
そしてその瞬間、目の前に看護師が立っていることと、まだフェリシアーノの手を握っていることに気が付いた。
あわててフェリシアーノの手を離して起き上がったものの、ルートは目を白黒して、陸に上がった魚のように口をパクパクするばかりで一言も声を発することができなかった。
「ごめんなさい、私はどうやらお邪魔のようね」
看護師は、そんなルートに何事もなかったかのように微笑みかけると、点滴を手早く片付けながら、
「ヴァルガス君、点滴は終わったからもう帰っても大丈夫よ。あなたの服はそこに畳んで置いてあるから、着替えてね。どうぞお大事に」
と、フェリシアーノに声を掛けると部屋を出て行った。
「うん、ありがとう、お姉さん。チャオ!」
後には無邪気に挨拶するフェリシアーノと、真っ赤になって口を開けっぱなしのルートが残された。
さてその数分後。
「大丈夫か、立てるか?フェリシアーノ?」
フェリシアーノが着替え終わるのを待っていたルートは、ベッドを囲うカーテンの向こうから出てきた彼に声を掛けた。
「うん、たぶん大丈夫・・・だと思う」
ちょっと頼りない返事が返ってきたので、ルートはまた不安になったらしい。
「いいか、無理はするなよ!きついならきついとちゃんと言うんだぞ。心配しなくても、俺がちゃんと、うちまで送ってってやるから」
「ありがとう、ルート。俺、嬉しいよ。ルートがうちに来るなんて初めてだね」
いかにも嬉しそうにそう言うフェリシアーノに、ルートは今度は照れたのか、
「馬鹿なことを言ってるんじゃない、さっさと帰るぞ!」
と、ややつっけんどんな返事を返してきた。