ジェンガ
彼女の両親は外資系の会社を経営しており、海外出張がしばしばあった。
そのため、疑似恋愛を始めてすぐに紹介という風にはならなかったのだ。
私とナターリヤ・アルロフスカヤが出会ってから1ヵ月が経っていた。
「土曜日・・・明後日ですね。わかりました。ナターリヤさんの家に向かえばいいですか?」
「ああ。」
ついにこの日が来てしまったと、心の中はとてもざわついていた。
真っ黒な煙がとぐろを巻いているようだ。
「菊・・・。」
「なんでしょうか?」
彼女に気付かれないようにいつもの明るい声で話す。
「ごめんな・・・」
そう言うとすぐに電話は切れてしまった。
何が「ごめん」なのだろう。彼女は何も悪くない。
むしろ謝らなければならないのは私のほうだ。
「好きになってごめんなさい。」
彼女との関係の終わりが近づいていた。
私はきちんとサヨナラを言えるだろうか。
彼女を傷つけずに別れることは、できるだろうか。
次の日の金曜日は、電話の話はしなかった。
私もなぜ謝ったのかは聞かなかった。
彼女との残された時間を大切に過ごそうと決めたのだ。
公園で少し話してから、彼女を家の前まで送る。
「今日で、最後・・・だな。送ってもらうの。」
「そうですね・・・。名残惜しいですか?」
カマをかけてみる。
本当は最後にしたくなくて。
本当は「貴女とずっと一緒にいたい」と、言いたくて。
「そうだな。少し、寂しい。」
「・・・・そう、ですか。」
喜べばいいのか、悲しめばいいのかわからなかった。
きっと明日が別れの日だと知らなければ、もっと心から喜ぶことができただろうに。
「じゃあ、また明日。」
「ええ。また明日。」
これが最後の「また明日」。
私は彼女の家から離れると、知らず知らずに滲む涙をいきおいよく拭った。
風は冷たく、私の涙のあとをかすめた。
**
ついに土曜日がやってきた。
どんな服を着ればいいのかわからなかったけれど、とりあえずフォーマルな服を選ぶ。
ネクタイを締める自分の顔を鏡で見る。
暗い顔をする自分の頬を、ぴしゃりと両手で叩いた。
彼女のためにも、この疑似恋愛を完璧なものにしなければならない。
自分にできることはそれだけだ。
彼女の家の前に行き、インターフォンを押す。
この1ヵ月毎日のように通っていた家だが、中に入るのはこれが初めてだ。
背の高さ以上ある鉄の門がギイイと大きな音を立ててゆっくりと開いた。
インターフォンの向こうから、聞きなれた澄みきった声が聞こえる。
「菊、いらっしゃい。中、入ってくれ。」
平常心、平常心。と心の中で唱えながら、10mほど先にある玄関へ向かった。
扉の前で立ち止まると向こうから扉が開く。扉を開いた彼女が、私服で立っていた。
フリルのついた白いワンピース。ネクタイをしめてきた自分の格好を少し恥ずかしく思った。
「今日は、よろしく。」
「ええ、わかってますよ。ナターリヤさん。」
微笑むと彼女はほうと息をついた。緊張していたのだろうか。
「似合ってるぞ。ネクタイ。」
いたずらっ子のようにニヤニヤと笑う。
私は、はあと溜息をついた。
「言わないでください。」
すたすたと軽快に歩く彼女のあとについていった。
先の見えないまっすぐに続く廊下。きょろきょろと目が泳ぐ。
どんな部屋に連れていかれるのだろうか。
少し歩くと大きな広間に繋がる扉が見えてきた。
彼女はふう、と深呼吸する。
私に目配せして、ドアノブに手をかけた。
扉を開けると優しそうな中年の男性と、女性が待ち構えていた。
男性の瞳と、女性の髪の色が彼女と同じだ。否、彼女が男性の瞳と女性の髪に遺伝しているのだ。
彼女は気恥ずかしそうに「父と母だ。」と言った。
両親はにこにこと私に笑いかける。
彼女の母が、彼女に早く私を紹介するように求めると、面倒臭そうに「彼氏。」とだけ呟いた。初めて見る彼女の表情を新鮮に思いながら、私は好青年の笑顔を取り繕った。
「ご紹介に与りました、本田菊と申します。ナターリヤさんとは、1年前からお付き合いさせていただいています。」
1年前というのは、全くの嘘だ。本当は1ヵ月なのだが、なんだか薄っぺらいから1年にしようと彼女が言いだしたことだった。
彼女のほうを見ると、こちらに合図してくる。
口をぱくぱくさせて「こ・の・ま・ま・よ・ろ・し・く」と、言ってきた。
にっこりと笑うと彼女はこくりと頷く。
彼女の父が話を切りだした。
「娘がお世話になっています。立ち話もなんだから、座りましょう。本田くん、苦手な食べ物はあるかい?」
「いえ、好き嫌いは特に。」
「それはよかった。今日は私が作ったのよ。お口に合うといいのだけれど。」
彼女の母も私に笑いかけてくる。
どうやら好感触のようだ。このまま何も起こらずに終われば、の話だが。
席につくと、美味しそうな料理がメイドの手によって運ばれてきた。
生のメイドさんを見るのは初めてで、かなり驚いてしまった。
彼女の家はこれがデフォルトなのだろう。
正直言って何を食べたのかとか料理の味を覚えていられるほど私の神経は太くなかった。
始終胃がキリキリしていたくらいだ。
彼女は、両親の前だといつもより更に口数を少なくした。
それがとても新鮮だったが、助け舟がないという点では、私の胃を更に痛めつけた。
彼女とどこで出会ったのか、とか普段はどんなことをするのかとか、娘の彼氏に当然聞くようなことを、彼女の両親は質問した。私は笑顔でひとつずつ答えていく。
もともと外面だけはいいのだ。まさかこんな風に役立つとは思わなかったけれど。
「本田くんは、ナターリヤのどこが好きなんだね?」
いつかは聞かれるだろうと思っていたが、改めて聞かれる質問に動揺する。
ふう、と息を吐き、吸った。私は本心で、答えた。
彼女のことが好きなのだ。たとえこの思いが彼女に届かなくとも。
「ナターリヤさんは、私を見てくれました。他の誰でもなく、私を。本田菊を見てくれたんです。それが、とても嬉しかった。彼女の透き通るような紫の瞳も、夕焼けに輝く白銀の髪も、呆れたような笑いも、全部が愛しいんです。私は、ナターリヤさんのことが大好きです。」
言い終わると彼女の母はあらあら、と口元に手をあてた。「妬けちゃうわね」と呟く。
私は自分が何を言ったのかもう一度よく考えてかあっと頬を火照らせた。彼女のほうを向くと、照れてそっぽを向いた。
これが、私の本心です。だなんて、彼女に言ったらなんと返してくれるのだろう。
突然彼女の父が笑い始めた。
「ナターリヤがどんな恋人を連れてくるかと思えば・・・ここまで惚れこんでいるとはね。・・・本田くんが、ナターリヤを口説き落としたのかな?」
彼女の父は彼女を見た。
火照る頬を押さえながら、彼女は小さく頷く。
「本田くん、ナターリヤはご覧の通りとても面倒臭い子なんだ。けれど、悪い子じゃない。どうか、この子をよろしく頼むよ。婚約者なんて、どうかしていたよ。こんなにこの子を愛してくれる恋人がいるのにね。」
「・・・お任せください。」
にこりと笑って答えた。胸が痛い。私は偽物なんですお義父さん。
そして、もうすぐ別れる設定なんです。