心音。
「――俺は、気が長いわけでも、心が広いわけでもねぇ」
ぼそり、と――
挑発的な若者の言葉に対して男の口から紡がれたのは、独り言のような言葉だった。
「はぁ? 何言って――」
若者の言葉を完全に無視する形で、男は言葉を続ける。
「久々の休日に天気がいいから外に出て、いい気分でボーっとしてたのに、知らない女の子達に何かからかわれて、でもまあ一応は褒めてもらったわけだし、女の子相手に怒るのもなんだと思って適当に流そうとしたのに、目の前でその子達にいけすかねぇマネする野郎共が出てきたら、この胸の苛立ちをぶつけたくなっちまう程度には、俺は理不尽に生きてんだ」
淡々と――淡々と。それでいて流れるように紡がれる、独白のような語りかけ。
異様な長台詞に呑まれて動けない若者達を見回し、男はただ自身の言い分を一方的に告げる。
「でもな、俺は、暴力が嫌いだ。喧嘩なんかしたくねぇんだ。
だから、さっきの挑発っぽいてめぇの台詞も、もしかしたら本当に聞き取れなくて聞き返したという可能性もあると考えて、もう一度だけ言う。よく聞けよ」
「───その子を、放せ」
噛んで含めるように告げられた台詞。その後に落ちた沈黙で、若者達の硬直が解けた。
「……なめてんのかよ、オッサン」
そう返した若者達もまた、少女達と同じく『余所者』であったのだろう。
この池袋に詳しければ、もしくは周りの空気が読めれば、避けられたであろう最悪の勘違い。
自分達が数の上で優位であることと、男の大人しげな風貌と静かな物言いから、この男が自分達より『弱者』であるという、とんでもない勘違いを。
懇切丁寧な男の『忠告』を、『挑発』という形に受け取って、若者達は最悪の選択を選ぶ。
自分達にとって、最悪の選択を。
「――ッこんでろやぁぁァァァアアアアッ!」
罵声とも、気合ともつかない声を上げながら、若者の一人が男の胸へと蹴りを繰り出す。
何か格闘技でもやっているのか、はたまた“実戦”慣れしているのか、常人がまともに食らえば、肋骨が折れてもおかしくないような渾身の一撃を。
───ドンッ!
狙い過たず、若者の蹴りは男の胸に命中し、くぐもった音で空気を震わす。
だが――それは、ただ、それだけのことだけだった。
「――は?」
蹴りを繰り出した若者は、その仲間達は、彼らに捕まれた少女達は、目の前の光景に、己の目を疑った。
男は、バーテン服の胸で若者の足を受け止め――平然と、立っていた。
ガードしたわけでもなく、何らかの方法で衝撃を受け流した訳でもなく、真っ向から食らった蹴りを、まるで蚊に刺されたほどにも感じていない様子で、先程までと全く同じ姿勢、同じ位置で、男は立っていた。
その事実によって受けた衝撃から、一同が回復するより早く、
「……くも、」
辺りを包む不気味な沈黙に、小さな呟きが、落ちた。
低い、憤怒を煮詰めたようなその声が、目の前の男から発せられたのだと若者が気づいた時――
「弟がくれた服を足蹴にしやがったなぁぁあああアアアアアッ!」
火山が噴火する轟音にも似た怒声を聞きながら、彼の視界は超高速で回転した。
───え、嘘 何が
男に蹴り足を片手で掴まれて、振り子のようにブン回されたのだと、当の若者にはわかるはずもなく。
ハンマー投げの要領で投じられた彼の身体は、凄まじい衝撃を伴って、呆然とする仲間の身体へとぶつかった。
「ッぶげアッ!」「ぐふぉッ!」
苦悶の声を上げ、仲間の下敷きになる数人の若者達。
人型ハンマーが投げられた位置に少女は一人もおらず、巻き込まれたのは若者達のみ。
しかし、男が少女達を巻き込まぬ意思を持ってそこを狙ったのだと、少女達に気づけというのは酷だろう。
片手で人一人をブン投げるという非常識な怪力に対する恐怖は、正常な判断力を、正確な観察眼を、いとも容易く失わせる。
こめかみに、額に、首筋に、手の甲に。
バーテンダー服と金髪に隠されず、露出して見える皮膚の上に、幾つも、幾つも、まるで何かの疾患のように青筋を浮かべ――
「――俺は暴力が嫌いだって言っただろうがよぉ……」
凄まじい憤怒のオーラで、取り巻く人々を縛りつけ――
「俺に暴力を振るわせやがってぇぇええええええッ!」
凄まじく理不尽な怒声を上げ、人型の怪物は若者達の中に突っ込んだ。
男が腕を振るう度、風に舞い上げられた塵の如く、人が容易く宙を舞う。
さして多くもなかった若者達は、瞬きするほどの間をもって無力化された。
残ったのは、ある意味、この乱闘――否、一方的な蹂躙のきっかけである、少女の腕を掴んだ若者のみ。
「――な……なんなんだよ、コレ!?」
数の優位を瞬く間にひっくり返され、仲間をやられ、完全に思考回路がショートした様子で若者は叫ぶ。
その声に引かれるように、暴力の化身のような男が、若者を振り返った。
「――ひっ……」
息を呑むようなその声が、自分のものではないと気付き、若者は自身が掴んだままだった少女の存在を思い出す。
「く、来るな! 来たらこいつを――」
少女を自身の盾にするように前に立たせながら、そう叫びかけ――
全く構う様子もなく突貫してくる男の姿に、続く言葉を失った。
「……っんの、クソ野郎がぁぁあああああアアアアッ!」
男は、熊でも恐れ慄きそうな凄まじい怒声を上げながら――
長いその腕を、小柄な少女の身体からはみ出た、若者の額に向けて伸ばし、
親指でたわめた中指を、勢いよく弾いた。
───ッガッ……!?
ただのデコピンとは思えない、まるで膝蹴りでも食らったような凄まじい衝撃が若者を襲い――
顎を外し、口をだらんと広げつつ、脳震盪を起こして若者は引っくり返った。