心音。
後ろへ引っくり返った若者に引き摺られるような形で、若者の上に尻餅をついた少女は、目を見開いて目の前の男を見やる。
「――ッあー……」
男は、苛立たしげな声を漏らしながら、色眼鏡の奥の両目を固く瞑り――
一つ、大きく息を吐くと、静かにその瞼を開いた。
「……怪我は?」
静かな声、静かな眼差し。
先刻、少女達と交わしていた時と同じ調子で、男はただ一言そう告げる。
少女が、その言葉が自身の安否を気遣うものだと気づくまで、かなりの間があった。
「……え……あ……は、はい!」
気付くなり、慌ててかくかくと少女は頷く。実際、若者に掴まれていた手首以外に、痛むところはなかった。
「そうか。……立てるか?」
そう言って男は手を差し出し――
「――ひっ……」
少女は、思わずその手から逃げるように身を引いていた。
男が、自身を助けてくれたこと、恐ろしい怒気を既に治めていることも、少女自身、頭では理解しているのに。
スイッチを切り替えたような男のギャップ――何より、人一人を容易く宙に舞わせる怪力。
───ふとした拍子に、あの『暴力』が自分に向けられたら。
それらは、そんな最悪の想像で、恐怖を覚えさせるには十分すぎるものだったのだ。
「……ああ、悪ぃな。よく知らねぇ男に、馴れ馴れしく手なんか引かれたくねぇよな」
男は、そんな少女の様子に気を害した風もなく、ただ静かにその手を引き――踵を返す。
自身を避けるように割れる雑踏の中へ、無造作な足取りで進んでいく。
友人達に助け起こされながら、見送った男の背は――少女の目に、何故だか酷く寂しげなものに映った。