Return to the dream
経過の確認と、改めてお礼の挨拶がしたいと申し出た飯富兄弟と本多(とそれを記事にしたい競馬記者たち)が事務所に消え、その間2頭のダービー馬は放牧地に放されることになった。
カスケードに寄りかからずとも、ひとりでしっかり座っておけるようになったマキバオーを牧柵の向こうから眺め、
「すごいよ、たれ蔵くん!」
山本は感涙している。
「んは……。こんなことで褒められるの、なんかヘンな感じなのね」
「ま、喜んでるようだし、いいんじゃないか?」
ゆったりと草を食むカスケードの鼻先をすり抜けたトンボが、置物と勘違いしたのかマキバオーの額で羽を休める。
それを振り払うでもなく、大人しくしている好敵手ののんきな姿に、カスケードは苦笑した。
額のトンボを見つめるあまり、盛大な寄り目になってしまっている。
「……ねえ、カスケード」
「?」
「いまさらだけど、ありがとう……なのね」
こちらを見ず、寄り目のままマキバオーが言った。
「……フン、その面を見ると、野暮は承知なんだろう?」
礼など必要ない、と目をそむけたカスケードを、マキバオーが笑う。くすくすと揺れる肩に驚いたのか、トンボは秋の空へと慌てて飛び立っていった。
「ん……。カスケードなら、きっとそう言うと思ったのね」
「なら、始めから礼など言うな」
言葉ではない。相手の生き様を肌で感じ取る。そういう世界に、自分たちは生きてきた。
世話になっただ、ありがとうだ何だの、背中が痒くなるような友情劇など、今更必要ではないのだ。
「カスケードらしいけど、きみばっかりそういう格好つけが似合いすぎるの、ちょっとズルイと思うのよね」
おんなじダービー馬なのに、とすねるマキバオーを今度はカスケードが笑った。
マキバオーがいよいよ帰るという段になると、手の空いたスタッフがぞろぞろと出てきて、それぞれが小さな客との別れを惜しんだ。体格が良かったせいで、いつもマキバオーを抱いて移動を手伝っていた医療スタッフは、情が移ってしまったのかかなり残念そうだ。
マキバオーという馬は、不思議とどこででも愛され、皆の中心になる馬だった。自分たちの世代が、それぞれ持てる力以上のものを発揮して競い合うことになったのも、この小さな体が生み出す風に、気が付かないうちに巻き込まれた結果に違いない。
最後までスタッフたちに頭を下げ続けていた源次郎が運転席に納まり、ようやく出発の準備が出来たとき、
「んあ~!! 待って! 大事なこと忘れてたのね!」
荷台の山本に抱えられたマキバオーが叫んだ。
カスケード、カスケードと必死に呼ばれ、怪訝に思いながらも近づくと、
「お返しを忘れてたのね」
「…………?」
山本に腹を支えるよう頼んだマキバオーが立ち上がる。
荷台の中に頭を入れるよう乞われて、帝王はようやく、マキバオーがいつかのグルーミングの返礼をする気なのだと気づいた。
ちらりと荷台の中を窺うと、自分たちの別れの一枚を激写しようと狙っている記者がいる。
「いや……。遠慮しておく」
「だめ! だめなのね! 約束を守らないと、男がすたるのよ。親分に怒られちゃうのね!!」
その名を出されると、帝王も弱かった。
チュウ兵衛の生き様から得たものは、カスケードにとっても大きい。
何よりあのねずみにそう躾けられているのなら、マキバオーは決して譲らないだろう。
……仕方がない。
目を輝かせて見守っている記者たちに冷たい一瞥をくれ、撮るなと目で訴えながら、それでもカスケードは望まれるままに荷台の中に頭を差し入れた。
作品名:Return to the dream 作家名:ぽち