Return to the dream
「ところであいつ、本多ファームに連れて帰れないか?」
「マキバオーをうちへか?」
見たところ、人間の方にも限界が来ている。
本多ファームのような大牧場と違って、みどり牧場のような小さな牧場に人員の余裕はない。マキバオーにはつきっきりの看病が必要だろうが、通常の牧場業務にも支障をきたすわけにはいかない。一人一人の負担は、大幅に増えているだろう。
「俺の馬房に一緒に放り込んでおけばいい」
「ふむ……。まあ、お前には二十四時間体制で体調をモニタリングする医者たちがついているし……悪くはない考えだな」
本多のカスケードに対する情熱――いや、カスケードの母であるヒロポンの血に対する情熱か――は、あらゆるところに発揮されている。マリー病に蝕まれたカスケードの種牡馬生活を恙無くサポートするため、数人の医療班が交代でモニター室に詰めているのもそのひとつだ。
みどり牧場ではマキバオーの病状が急変した場合、主治医を呼ばなければならない。その医者がどこに住んでいるのか知らないが、北海道は広い。すぐに駈け付けたとしても、到着にはそれなりの時間を必要とするだろう。そのことを考えても、容体が安定するまでの間だけでも、移れるものなら本多の牧場に移った方がいい。
「ただ、飯富さんが一時でもマキバオーを手放しきれるかだな」
「その方があいつのためでもか?」
「……オーナーの思いというのも、複雑なものなんだよ。ああも具合が悪いと、やはりまさかを考える。危篤の時、愛馬を救命する方法の選択を、他人の判断に委ねるには大変な勇気がいる。私だったら耐えられないね。それに……もしも亡くなるのなら、せめて自分の目の前で……傍についていてやりたいと望むものなのさ」
「……そうか」
自分が幾多の種牡馬場の高額オファーを跳ね除け、本多リッチファームで繋養され続けている理由も、おそらくその思いからなのだろうとカスケードは思った。手元を離れてしまえば、カスケードの待遇に口出しすることは元オーナといえども難しい。
本多は資本という力を持っている。その力の及ぶ全ての方法でいま、カスケードは守られているのだろう。
飯富と本多の話し合いは長時間に渡った。
何か事故があってはいけない、と結果が出るまで馬運車内で待つように言われたカスケードは、薄暗い車内に横たわって自分の決して長くはなかった現役時代のことに思いを馳せた。
自分を生むために命を落とした母の血を後世に残すため、何としてでも強い馬になる必要があった。そのために幼少時代から過酷なトレーニングを自分に課したが、あのころの自分にとって走ることは自分の価値を世に認めさせる手段でしかなかった。
初めてマキバオーとチュウ兵衛に出会ったときのことは、もちろん覚えてはいる。が、ふたりに対して道端の石ころほどの興味もわかなかった。
正直、修羅の道を行く自分が相手にするほどの馬ではないと思っていたというのに。
相手にしていないにもかかわらず一方的に喧嘩を売られ、巻き込まれるままに随分と予定とは違った競争生活を送らされたものだ。
過酷ではあるけれど珍妙なトレーニングで確実に強くなるあの小さな生き物に、気がつけば心の深い部分に炎を灯されていた。走ることはいつの間にか、あの馬に追いつかれたくない、負けたくない、勝ち続けたい――まさしく自分のための理由になっていた。
現役を退いた今となっては、自分の限界に挑むようにターフを駆けたあの日々は、まるで稀有な宝石のようにカスケードの中で輝いている。
作品名:Return to the dream 作家名:ぽち