歩んできた時間
狭いホテルの部屋にかろうじて備え付けられたバスルームに入る。
適当に着物を脱いで放り投げると、バラバラになった。後で拾うのが大変そうだ、と思いつつも少し笑みが零れた。
本当なら我が国にあるような風呂に入りたかった。熱い湯船につかり、体の芯から疲れを解したい。
とりあえずシャワーだけで済まそうと蛇口を捻ると思いのほか熱い水が頭にかかり、「ひっ」と小さな声が出た。
気をつけなければ・・・突然熱いお湯をかぶるなんて年寄りには自殺行為だ。
一気に心臓の鼓動が大きくなるのを深呼吸で整えてシャワーの温度を少しだけ下げる。
心地よい刺激にしばし酔いしれた。
(満月の下に居る日本はいつも以上に綺麗だね)
突然フランスさんの言葉が思い出された。
そして、ついさっき一瞬だけ触れ合うのではないかと思うほど近づいた顔を思い浮かべる。
フランスさんの優しい笑みは何処までも優しかった。
『お主は月がよう似合う。月の光に照らされたお主は美しい。』
そう言ってやはり優しい笑みを浮かべた男を思い出した。
何処かで聞いた口説き文句だとは思ったが、そうかあの人だ。
まだ酒の味を知らない私に酒をたっぷりと飲ませ、アルコールに強くさせた人。
私はまだあの人以上に幸せに生きた日本人を知らない。
(俺はもう、後悔したくないんだ)
また、フランスさんの言葉を思い出す。
どこか寂しげなその表情を頭を振って追い出す。
髪の毛はすでにぐっしょりと濡れて頭が重かったが、私はぶんぶんと頭を振り続けた。
自分の中に芽生え始めた僅かな感情をその存在さえ認めたくなくて熱い湯気が立ち上るバスルームで私は過去に思いをはせた。
******
満月を見上げながら杯を持つその男に私は音を立てないよう近づいた。
その広い座敷をゆっくりと進み、あと数メートルまで迫ったところで、「来たか。」と声をかけられた。
「気づかれていたんですか?」
「わしがお主の気配がわからないとでも思ったのか?」
問いに問いで返され思わず押し黙る。
「それとも、何か、静かに近づきこの首でも締める気だったのか?」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべるその男に私は唇を尖らせた。
「殺しても死ななそうなくせに。」
「そうだな、今、この日本にわしほど無敵な男も居ないだろう。」
くっくっと楽しそうに笑うと、杯を渡される。
「特別にこのわしが注いでやる、飲め。」
いまいち酒の美味さはわからない。
そう心の中で思いながら杯に口を付ける私に、その男は不満そうだ。
「なんだ、もっと美味そうに飲め。今宵はお主が来るというから特別に美味いのを用意したんだ。」
「はぁ…。」
頼んでないと心の中で零す私の心中を察したのか、その男はふんっと面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「お前は変わらないな。初めて会ったときから。」
「私が変わってしまったら一番困るのは貴方のほうでしょう。」
「…それもそうだな。今のこの世はわしの天下だ。」
また見事な満月を見つめ、男は呟いた。
初めて会ったのはいつだろうか。
突然そんなことを思う。
確か、まだこの目の前の男が幼い稚児だった頃だ。
その時はこの可愛らしい子がこんな風に育つなど思いもしなかった。
ましてや、共に酒が飲める日など…。
私は国であるだけであり、その行く末を知るわけではない。
私に気に入られたからと長生きできるわけではないのに、たまに勘違いする輩も多い。
その中でこの男は異色だった。
使えるものはなんでも使う。
自分の地位も、財産も、全て、自分の娘さえ勝手に使い手に入れた。
優しい人間とは言い難いが、何故か私には嫌に優しい。
満月から視線を外し、私を見たその男の微笑は苦しいほどに優しい。
「飲め、もっと飲め。」
「はぁ。」
またチビリと口を付けてはその独特な香りと苦みに顔を歪める。
「美しいな。」
突然そんなことを言うので、私は先ほどまで男が見ていた満月を見上げた。
「そうですね、見事な満月です。」
「そうじゃない。」
そして月の光照らされた私自身が美しいと言った。
「お主は変わらない、それがもどかしい。」
「さっきも言いましたが、この世は今貴方の天下ですよ。それなのに私に変わって欲しいのですか?」
「違う、お前が国であることがもどかしい。」
酔い始めたのか少し饒舌になったその男に私は首をかしげる。
「私が国であることが?」
自分が日本では役不足だということか、まさか、この男自分こそが国になりたいとでも考えているのか、などとぼんやり思っていると、男は声を少し荒げた。
「なんでも手に入れた。地位も名誉も財産も、未来も何も怖くない。それなのにどうあがいてもお主だけは手に入らない。」
「…私ですか?」
「ああ、この世は私の物だ。今ならあの満月が欠けるようなことも無い気がする。」
私はまた満月を見上げた。
そんなはずは無い、明日からはまたあの月は少しずつ欠け始めるのだ。
「それなのに…それなのにっ、お主だけはわしを置いていく。」
指さされ、そう言い放たれた。
少しだけ考えて、私は男の発言を訂正した。
「違います、貴方が私を置いていくんです。」
そう私が言った瞬間男は目に見えて肩を落とした。
「そうだ。わしはいずれ死ぬ。わしばかり年老いて、お主は美しいままだ。」
なんて我儘な男なのだろう、と私は思う。
貧しい村には生まれたその瞬間に死ぬことが定められた赤子も居るというのに、こんなにも手に入れて幸せに暮らして何が不満足なのか。
「不老不死、も良いもんでは無いですよ。」
私がそう言うと、男は苦笑した。
「お主は子供だ。酒の味もわからんし、わしが言いたいこともちゃんとわかっていない。」
「わしは、不老不死になどなりたくはない。ただ、お主と同じ時を生きたかった、とそう言っているのだ。」
「国になりたい、ということですか。」
「・・・もういいわぃ。」
諦めたように言うその男に最期までその言葉の意味を理解出来なかった私は、あっさりと別れを告げた。
******
私はもしかしたらあの男に愛されていたのかもしれない。
今となっては遠い過去だからなんとも言えないけれど、あの時の寂しそうな笑みはさっきのフランスさんの笑みに似ていると思って、また慌てて首を振った。
あの男に言われた言葉が頭の中で響く。
『国も、誰かを愛するか?』
私は確か民を、国民を愛していますと答えた。
その言葉にあの男はどんな表情をしていたか、忘れてしまったがなんだかあまり良いことを言ってなかった気がする。
私が誰かを愛するだなんて、そんなこと。
一瞬だけ浮かび上がりそうになる人物が居たが、それがはっきりする前に頭がぐらんと揺れた。
シャワーだけで上せたらしい。
何をやっているんだ、そういえば早く汗を流して着物をたたまないと皺になる。
私はシャワーを止めると同時に考えることも止めた。