歩んできた時間
「っ…。」
背中が叩きつけられてその衝撃に目を見開くと、一呼吸置いて、今度は私を押し倒したフランスさんのほうが私以上に目を見開く。
「ぁ…。」
そう、小さな声で呟いてから、フランスさんはバツが悪そうに私の上から退いた。
「あーと…、ごめん、ね。」
「…いえ。」
この人がこんなに動揺している姿は初めて見た。
今の突発的な行動にフランスさん自身が戸惑っていられるようだった。
「ハハ、お兄さんヤキモチ焼いちゃったよ。危なく嫉妬に駆られて襲っちゃうとこだった。」
誤魔化すように笑い、自分の額に手を当て大げさに首を振る。
「駄目だねぇ、キクちゃんが可愛いもんで。」
いつの間にか呼び名が変わっている。
そのことに気がついた瞬間、私の胸がドクンと大きく脈打った。
「いやぁ…今日は、もう帰るよ。虫は追っ払えたわけだし。」
さっと立って、すぐに客間を出てしまうフランスさんを追いかけて、玄関へ向かう。
フランスさんは靴を履きながら、此方を一度も見ない。
その背中を見ながら、少し寂しく思う自分に注意報を出した。
この感情は知っている。だからこそ、気を付けて、と。
「…好きだったの?」
フランスさんが背を向けたまま呟くように問う。
「…ぇ?」
私はその言葉に硬直した。
背中を冷や汗が伝う。まるで自分の心の中を見透かされたような恐怖に駆られた。
「名前、くれた奴のこと。」
「え?」
フランスさんが立ち上がり、こっちを見た。
その瞳はやはり何処かいつもと違う。
「さっき、キクちゃんの表情がまるで恋する少女のようだったからさ、ピーンと来たわけよ。」
にっこりと笑みを浮かべたフランスさんは、「俺の勘違いなら、その方が良いんだけど。」と、つけ足した。
フランスさんがそのドアを出てった後も、私は頭を下げたまましばらく考えていた。
(まるで恋する少女のよう…か。)
私に名前をくださった人は本当に恐ろしい人だったと思う。
天下統一を目指し、そのためにたくさんあくどい事や卑劣なことをして…多くの人を殺した。
最初から恵まれた地位に居たわけではない、けれどどんな逆境にも耐えうる精神を持っていた。
本音を言えば嫌いだった。
私は昔から、むしろ今以上に平安のあのやんわりとした趣深い風流な時代を好んでいた。
だから好戦的なあの男は苦手だったし、近寄りたくないし、関わりたくない相手だった。
けれど、あの男が望んだのは『天下』。
私という、国、という存在を放っておくわけもなく、逃すまいと恐ろしい形相で私を追いかけた。
私は飄々と逃げていたが、いつかは捕まるだろうと予感していた。
しかし、あの男は部下に裏切られあっさりと死んだ。
…やっぱり私はただ国であるだけでその将来の予知一つ出来やしない。
そんなあの男が私に名前をくれたのは最期の時だった。
燃え盛る寺の中に私が入ると、驚いたように私を見た。
『…そうか、お前は死なぬのだな。』
頷くと、ふっと笑う。
『ふん、ずーっと逃げ回り我が手中に収まらぬ者が、此処に来て現れるとはな・・・憐れみか?』
見たことの無い弱々しい笑みに私は動揺した。
・・・それに、なんて答えたか・・・。
私は玄関先に座り込んだまま、意識を過去へと向けた。
******
初めて会ったのは彼がまだ青年だった頃。
小汚い布切れを着て、突如私の前に現れた。
「お前が日本か?」
「ええ、そうですが…貴方は?」
私の問いかけに偉そうにふふん、と鼻を鳴らし彼は高々と言った。
「今は『尾張のうつけ者』と呼ばれているが、いずれはお前を手に入れる者だ!」
「この顔をよぉく覚えておけ。」そう言われ、私は戸惑いながらも日に焼かれ赤茶けたその顔を見ていた。
そして、その『尾張のうつけ者』とはその後も幾度となく会うことになった。
「いいかげん俺の物になれ。」
「…嫌ですよ。」
「何故だ?」
初めて会ったときとは全く違う高価な着物に身を包んだ彼は、私の髪をひと束掴み引っ張る。
「いたっ…。」
「欲しい物でもあるのか?・・・お前のためなら何でもしよう、何が欲しい?」
囁くように言われ、その甘い空気と侮辱の言葉に私は不快感を感じた。
「何も要りません、馬鹿にしないで下さい。」
立ちあがり、部屋を後にしようとすると、手を掴まれる。
「どうした?機嫌が悪いな、生理か?」
ニヤニヤと笑われ、私は思い切り手を振り払い、大股で部屋を出た。
イライラする。
彼とのやり取りを案外楽しいと思ってしまう、自分に。
そんな彼が裏切りを受けたと聞いたのは、彼が全てを手に入れる少し前のことだった。
私は柄にもなく、走った。
着物が意外と走りにくいものだったとこの時初めて気がついた。
騒然とした寺の周りをすり抜けて、中に入る。
ごうごうと燃え盛る炎は消える気などさらさら無いらしい。
頭から血を流し、彼はそこに居た。
座り、腹を掻っ捌こうとしていたところだった。
「何故此処に…そうか、お前は死なぬだな。」
彼の口調にはいつものような覇気がない。
ゴホゴホと咳き込んで血を吐いている。
「…憐れみか?」
その言葉に私は動揺を悟られぬようにキッと彼を睨む。
「憐れみなど、同情などするものですか…自業自得でしょう。」
「は、手厳しいな。」
彼に近寄ると、腕をとられた。
私の腕を掴むその手も血でヌルリとした。
「…なんですか。」
「もっと、俺の傍へ寄ってくれ。」
弱々しく呟いた言葉に、その通りにしゃがみ、彼と目線を合わせた。
と、その瞬間どこにそんな力が残っていたのか、思い切り押し倒された。
私の上に乗っかるように彼は倒れこむ。
「ちょっ…。」
私の焦った声をかき消すように口付けられ、彼の血が私の口の中へ入り込む。
生温いそれは、彼が生きていた証拠か。
唇を離し、私の顔を見て彼は笑う。
「っは、…っ、俺の、血でお前の唇が染まり・・・まるで紅を塗っているようだな。」
じわじわと彼の血で私の着物が赤く染まっていく感覚がわかる。
「お前の名を…冥土の土産に教えてくれないか?」
彼の呼吸は少しずつ浅くなる。
「名など…私は『日本』でしか無いので。」
私のそっけない言葉にも怯まない。
「そうか、ならば俺がお前に名をくれてやる。」
******
ポチくんが私の袖に潜り込んだ。
私は慌ててポチくんを抱く。
キュゥンと鼻を鳴らしたその姿に癒されながら、ゆっくりと目を閉じた。
キク、という名は好きだ。
私自身菊の花の優美さに見惚れてしまう。
そんな花にたとえて頂けたのだから、文句は無い。
しかし、「本田」は自分で考えた名字だ。
なんせ、
「織田 菊…なんて、語呂合わせが悪いですよ。」
私の方がよっぽど名付け上手だ、と、ポチくんと顔を見合わせた。