ヴァルナの娘
シャアはアムロを抱き締めようと手を伸ばし、胸に抱え込もうとした。
が、細身の体が腕の中に納まる直前、アムロがシャアの胸を軽く押した。
「さあ、貴方も元の世界に戻らないとね。皆が心配している」
シャアの精神は、猛烈な勢いでもって白い闇の世界からはじき出された。
脱出する直前に視界に広がったのは、白い闇ではなく青く光り輝く海だった。
2006 09 24
3
「…さ…たい…大佐!?大佐!!」
耳元に青年の声が聞こえだす。
肩を抱えて上体を懸命に引き起こそうとしているのが分かる。
自力で上体を起こそうとして、重く感じる手足に少し驚いた。
あの白い世界では体はとても軽かったのに・・・。
「大丈夫だ、ギュネイ」
幾分掠れてはいるが、シャアの発した声に安堵した青年は、肺の中が空になるのではないかという位の溜息を吐き出した。
「ギュネイ!Drをお連れし……、大佐!?」
常では考えられない程の大きな音を立てて扉を開けて飛び込んできたナナイは、ベッドサイドに腰掛けているシャアの姿を見て途中で声を途切れさせ、そのまま糸が切れた人形の様にしゃがみ込んだ。
「随分と心配をかけた様だが、私はどうなっていたのかね」
周囲の慌て具合に疑問を持ったシャアが問いかけた。
直ぐ横に立っていたギュネイがその質問に答える。
「大佐は、まったく意識を失っておられたのです。おまけにアムロ・レイの上からどうやっても離せなくて…。そのうち呼吸が怪しくなられて…。如何して良いやら判りませんでした」
途中から震えだす青年の声に、彼の感じていた恐怖の大きさが見て取れた。
「それはすまなかった。どうやら私はアムロの精神世界にトリップしていたらしい」
「ごめ……シャ…ァ…」
背中から小さな声がかけられ、シャアはブンッと音がしそうな勢いで振り返った。
アムロの瞼が開いている。
あれ程見たいと思っていた澄んだ瞳。聞きたいと願った声がそこにあった。
「アムロ!?気が付いたのかね!!」
両頬を挟んで鼻先が触れ合わんばかりに顔を寄せる。
細く甘やかな息が、シャアの唇を掠めた。
「意識が戻った??」
部屋に連れてこられた医師達が驚嘆の声を発した。
まるで信じられない現象を目にした様に固まっている。
無理も無い。
アムロの脳波は何も変化が無く、例えて言うなら死体の様な状態でいたのだから・・・。
それがいきなり覚醒し、しかも話すとくれば理解の範疇を超えてしまうのは道理である。
驚愕から復帰するなり、医師達はシャアを押しのける勢いでアムロに近づき、記憶や運動障害の程度を診断し始めた。
アムロの意識状態はいたって正常で、頭部を強打したにもかかわらず記憶の混乱は無かった。
ただ、ここが何処で今が何時で自分の状態がどうなっているのかは分からないのだから、逆に医師達に質問を返していた。三十分も質疑応答が続けられたが、アムロに疲労が見受けられる様になったので、今日はここまでとなった。骨折での神経損傷は無かったが、動かさないで居た事による筋力低下は著しく、医師の指を握るだけでも意識して力を込めなくてはならなかったが・・・。
「大丈夫でしょう。まだお若いですし、回復は早いと推察されます」
「そうか」
医師の報告を受けながら、眠りに落ちたアムロの枕元に腰を下ろしたシャアは、アムロの巻き毛を指で梳いていた。
とにかくこの魂を失わなくて済んだ事、この手に納められた事が何より嬉しかった。
意識が戻ってからのアムロは生来の負けん気を出して、一日も早く普通の生活を送れるようになる為に頑張りだした。
シャアが病室を訪問しても不在である事が多い。
シャアも総帥としての仕事がある為そうそう長居は出来ない。仕事の隙を突いての訪問では擦れ違いが重なる。そうなると、生きていてくれただけでも満足と思っていたはずなのに、アムロの顔を見れない、言葉をかけられない事にイラついてしまう。
上司の不機嫌度合いが日に日に増して行く事に、ナナイは溜息をついた。
『この人は、こんなにも子供じみていたのかしら・・・?』と呆れると同時に、どこか人間味が増した事に安堵する自分を自覚する。
上司の機嫌回復の為に一肌脱がざるを得ないと思ったナナイは、病院と連絡を取るべく受話器を上げた。
2006 09 26
4
6月1日
その日は朝から医療者に部屋で大人しく休んでいる様に再三勧められているアムロであった。
「でも、毎日リハビリは続けていないと効果が半減するとおっしゃっていらしたのはDrでしょう?何故今日は大人しくしていなければならないんですか?納得がいかないんですけど・・・」と、唇を尖らせて不平を言うアムロに
「いやいや。君は実に頑張っている。どちらかというと頑張り過ぎな位だから、今日は休養日だと思ってのんびりしなさい。体を休めるのも治療のうちなんだよ」と、主治医である壮年の医者は優しく諭した。
「なら、せめて中庭に出てはいけませんか?病室のベッドの上でじっとしているのは好みません。それ位なら良いでしょう?」
妥協策として出した言葉を医師が拒否するのは難しかった。
「分かりました。では、中庭までは許可しましょう。でも、大人しくしているんですよ」と、釘を刺しておいて医師は病室を後に詰め所に戻っていった。
寝間着代わりにしているサーモンピンクのジャージの上下に上着を羽織ると、アムロは中庭に移動した。詰め所の前を通過する時、主治医がどこかと話しているのが目に入ったが、許可は貰ったのだ。誰憚る事無く中庭のベンチに腰掛けた。
コロニーの天候は決められている。確か先週までは今日は降雨と言っていたのに、何故か晴れている。
小鳥が庭の木の上で盛んに囀っている。
花壇の花も咲き乱れており、穏やかな初夏の気候にアムロは目を閉じた。
こんなにゆったりと出来たのは十四年ぶりだと気付く。
サイド7でガンダムのマニュアルを拾った時からずっと、常に死や恐怖が身の回りに存在していた。気を許せばその牙にかかってしまう為、神経の休まる時が無かった。シャイアンに幽閉されてからは研究材料としてしか見られず、心がささくれ立ち乾燥していく七年間だった。そこを脱出しても戦いは自分の周りから離れてはくれなかった。また、戦うことでしか自分のアイデンティティーを保てなかったのかもしれない。
なのに、今は何もしなくても自分は存在しても良いのだと思える。
『どうして・・・?何時からそう思える様になった?』
ふと湧いた疑問を追求しようと思考の海に入りそうになったアムロの足に、何かが当たった。
慌てて目を開けると、それは紙飛行機だった。
「えっ?」
そっと拾うと、それは少し歪な折り方であった。
「ごめんなさい。上手く飛ばせなくて・・・」
謝りながら受け取りに現れたのは、片方に松葉杖を突いた十三・四歳の少年だった。
「君が折ったの?」