空と海の境界
「チカちゃん…」
伊達殿の目が怒りの色を落として、穏やかになった。
「身分違いは重々承知。ですが、あえて申し上げさせていただきます…」
俺は伊達殿に向かって、深々と頭を下げた。
「これから先、チカちゃんが述べることは俺の心にしまっておく。だから、気にすることはない」
伊達殿の言葉に、静かに頷いてから、大きく息を吸い込んだ。
その息をゆっくり吐き出して、心を落ち着ける。
「…この長曾我部元親…、伊達殿に惚れておりまする…」
ついに言ってしまった。
言いたかった、でも言うべきではなかったとも思う言葉。
伊達殿は返答しなかった。
打ち寄せる波の音だけが、耳に響いている。
二人を包む沈黙に、俺は耐え切れなくなって、歯を食いしばった。
「チカちゃん!」
俺が頭を上げて返事をするよりも早く、伊達殿が抱きついてきた。
「こんなうれしいことがあるんだな! 最高にHappyだぜ!」
異国の言葉混じりではあるが、何となく伊達殿の言いたいことはわかる。本当に嬉しそうによかった、よかったと呟いておられて、俺の『惚れている』という一言でこんなに喜んでもらえるとは思わなかった。でも、「惚れている」という言葉を口に出来るようになったのも伊達殿のお陰である。海の底に沈めたのあの思いを引き上げてくれたのは、伊達殿だからだ。
「伊達殿、伊達殿にお礼を申さなければなりません」
「何の?」
「伊達殿に会えたお陰で、私はようやく人に惚れるという思いを取り戻しました。そして、伊達殿に『惚れている』と伝えることも出来たのです。そして何より、私のようなものに惚れてくださったことについては、どうお礼を申し上げてよいのやら…」
「何言ってんだよ、チカちゃんは! 照れるだろうが!」
「本当の気持ちでございます。伊達殿に会うことができてよかったと思っております」
「あー、もう、何か可愛いなぁ!」
伊達殿は俺を強く抱きしめてきて、子供をあやすように俺の頭を軽く叩いた。
「俺はチカちゃんが惚れてくれてるっていう事実だけで十分だがな」
「……伊達殿は私のようなものでよいと?」
伊達殿がどうして俺のような人間に執着しているのかわからなかった。身分も低いし、初対面で戦いを挑んで、宝を奪って帰ってしまったような男だ。
「ん? チカちゃんだから惚れたんだぜ。初めて戦ったあのときに、俺は惚れちまってた。俺のものにしたいと思ってた」
「…私だから…でございますか……」
「身分とか、どこの育ちだとか、そんなことは全く関係ねぇ。長曾我部元親に惚れた。それだけのことだ」
俺が背中に背負っているものなど気にせず、俺自身に惚れてくれたということが俺は嬉しかった。
その嬉しさとありがたさをどう伝えるか思案した結果、俺は一つ、差し出すことにした。
「…では、この長曾我部元親…、もう、伊達殿のものでございます」
直後、伊達殿の腕が軽く震え、俺の言葉に対する驚きが伝わってきた。
「チカちゃん…本気で…?」
抱きしめられている伊達殿に身体を預けるように寄り添う。
「このようなこと、冗談では申せません。それとも、お気に召しませんか?」
「とんでもない! この腕の中にいるチカちゃんが他の誰のものでもなく、俺のものになったってことだろ? そりゃ、言い表せないぐらい最高だぜ!」
息苦しくなるぐらいに伊達殿は俺を抱きしめてきた。俺の鼓動の早さが伝わりそうで恥ずかしかったが、伊達殿から伝わってくるぬくもりが心地よかった。人に抱きしめられた時の安堵感を俺は思い出していた。
その安堵感に浸るように目を閉じていると、遠くから「兄貴ー!」と呼ぶ声がした。
伊達殿の腕から慌ててすり抜けると、ここだ!と大きな声で叫んでやる。
「兄貴、こちらにいらしたんですか! 客人もご一緒ですね」
いつも俺の身の回りをしてくれている部下が提燈を手にやって来た。
「おうよ。で、どうした?」
「どうしたも、こうしたも。もう、真っ暗ですぜ。ほら、海と空の境もわからない」
提燈に照らされた海は、一部分だけ灯りによって黄色く染められたが、それ以外は黒く、染められることを拒んでいるようだった。
「ああ、すぐに帰る。先に戻って、酒の準備をしておいてくれ」
「承知。では、これを」
そう言って部下は提燈を一つ俺に渡すと、足早に来た道を戻って行った。
「では、伊達殿、そろそろ私達も…」
そう声を掛けてみたが、伊達殿は動こうとしなかった。
「伊達殿?」
「俺、チカちゃんの部下になろうかなぁ…」