空と海の境界
俺は伊達殿の言葉に耳を疑った。
何を思って、そんな言葉を吐いているのか。
どう考えても今の伊達殿の身分の方がずーっと良いに決まっている。俺の部下になって、どんな良いことがあるというのだ。
「ご冗談を。どうしてそのようなことに思い至られたのか、不思議でございます」
「いや、チカちゃんの部下だったら、そんな堅苦しい言葉遣いされることもねぇだろ?」「お言葉ですが、伊達殿に敬った物言いをするのは至極当然のことなのです。身分が違うのですから」
「その身分ってのがうっとおしい。チカちゃんが俺の部下だったなら、その言葉遣いも納得できるんだが、そうじゃねぇだろ? 初めて戦った時は身分も何も関係なかったじゃねぇか。あの時みたいな関係っつうか雰囲気がいいと思ってるわけだ」
それは俺を対等に扱おうとしてくれているのか、単にあの無謀だった俺をおもしろがっているのかは、わからなかった。
俺自身はと言えば、できれば、こんな堅苦しい言葉遣いは止めてしまいたい。伊達殿の言うように、あの戦ったときの楽しかった雰囲気でこのままずっと過ごしていけるのなら、それは幸せなことであると思う。
そのためには、俺達の間にある余計な壁を取っ払う必要がある。
「チカちゃん、俺は気にしてないんだぜ?」
そうだ。伊達殿ははじめからずっとそう言っていた。伊達殿の前には壁などはなく、俺が自らの手でいつも壁を作っていたのだ。
その壁を作らなくてもよいのであれば…。それが咎められないのであれば。
「…伊達殿は本当にそれでよいとおっしゃるのですね?」
「チカちゃんは俺に対する批判が来るのを気にしてくれてるみたいだが、他の奴はほっとけばいい」
俺が気にしていたこともわかっていたのか。
伊達殿よりも身分の低いものが、対等な物言いをしていれば、『伊達殿の周りには立場をわきまえていないものが多い。伊達殿はどういう接し方をしているのだ』という話になりかねない、と考えていたのだ。
伊達殿はそのことさえも、気にしていないと言う。
それなのに、この俺がかたくなな態度を取っていては、伊達殿の思いが無駄になる。そして、伊達殿に惚れているという俺の思いも軽くなる気がした。
だから、俺は−−−−−。
「しゃぁねぇなぁ」
「チカちゃん…?」
「伊達がそこまで言うんなら、仕方ねぇ。ただし、どうなっても知らねぇぜ!」
伊達殿に向かって啖呵を切ると、伊達殿は上等、と笑って返してきた。
俺を見る目には不安などは一切なく、ゆるぎない自信と強さに満ちていた。そんな目を見ていたら、俺が今まで悩んでいたことが馬鹿らしくさえ思える。
「こんな物好きに会うとは思ってなかったぜ」
「よく言うぜ。こんな物好きに惚れたのはどこの誰だ?」
さあな、と軽く笑って、俺は歩みを進めた。
辺りの暗さはさらに深さをまし、堤燈がなければ一歩先に何があるかも認識できないであろう。自分の周りに黒い幕を下ろされたようで、飲み込まれそうな不安感さえ覚える。
「チカちゃん! 待てよ」
伊達殿は俺の腕を引っ張ってきた。堤燈がゆれて、橙色の線を描く。
「どうしたよ?」
「いや、なんだか無性にうれしくてな」
伊達殿の声は今までよりも高くなっていて、はしゃいでいるような雰囲気である。
隠してはいるが、俺も実は少しばかりはしゃぎたい気分ではあるのだが。
「…それはよかったな。早く帰らねぇとあんたの右目が怒るんじゃねぇか、料理が冷めるってよ」
伊達殿一人でここまで来ているとは思えない。俺の元まで一緒に来ることはしなかったようだが、俺の屋敷で料理をしつつ待っているのだろう。
「ああ、そうだな。せっかくの料理が台無しだな」
「そうそう。急ぐぜ」
再度速度を上げて、歩みを進めた俺に伊達殿はもう一度俺の名前を呼んで足止めした。
「……今度は?」
「俺は…この海と空の境界がなくなって混さりあっているように、チカちゃんとの境界もなくして、混ざりあいたい」
何を言い出すのかと思えば、と笑い飛ばすこともできないほど、伊達殿は真剣であるようだった。
混ざりあいたいというのは、どういう意味なのだろうか。心が通じ合うとかそういう意味なのだろうか。
返答に困った俺は、あえて確認してみることにした。
「…それは、精神的に? それとも肉体的に?」
伊達殿は軽く口笛を吹いてから、俺の側まで駆け寄ってきた。俺が伊達殿の名前を口にしようとした途端、正面から肩を掴まれる。
「まさかそんな質問が返ってくるとはねぇ。はぐらかされると思ってたがな。そうだな…、俺としてはもちろん両方ともって言いたいところだが、チカちゃんの性格上、どちらも難しそうだな」
「…失敗した。気になることは聞いておかねぇと、っていう性格が災いしたか。忘れろ」
伊達殿の腕を振り払って、今度こそ帰るぞ、と言わんばかりに俺は足を進めた。