幸福な夢を見る
「意味、分からないだろうね。ということはまだ世界は正しい方向に進んでいるってことだ。それが良きにしろ悪しきにしろ……君にとっては素晴らしいことだろう?」
「……」
相変わらず理解は出来ない。だが、自身も知らぬところで何かやってはいけないことをやったのは分かった。悪いことをしたら謝る。ごく単純で正しい思考回路を持つ帝人は、小さく頭を下げてすいませんと言った。時に、本人が悪い所に気が付かない謝罪は被害者にとって感情を逆なでする行為にしかならないことがあったが、臨也は重い溜息を吐いて帝人を許してみせる。
「君に、帝人君に謝られても仕方がない。今の君は悪くないんだからさ」
「はあ」
「おいで」
ようやく眉間の武装を解いた臨也は、やわらかく笑って手を差し伸べた。何の疑問を持たずその手を掴んでから、そういえばこうしたスキンシップが初めてなことに気付く。それもそうだ。臨也も帝人も男同士で普通ならば手を繋ぎ合うことなどする筈がないのだ。しかし嫌悪感など何一つ覚えずそれどころかこうすることが最善であるような心持になって、今初めて帝人は、臨也のことを愛しているのに気が付いた。そうして気が付けば、何もかもがしっくりくるような気がした。たったひとつ以外はすべて完成していたパズルに最後のひとつが嵌ったかのような、快感すら覚える思考の完成に、たまらず苦い笑みを浮かべる臨也を抱きしめる。どこにもいない臨也。誰にも見えない臨也。だのに、帝人には見え、帝人には触れることが出来る。それは運命と呼ぶのでは、と思った。世界でたった一人だけ、自分だけが臨也を見つめることが出来る。
「好きです」
「……」
「臨也さん、好きです。僕は、臨也さんが、好きです」
臨也は答えなかったが、少なくとも帝人の背に腕を回すことはしてくれた。抱き合う故に発生する温もり。延々と降り続ける雨も最早気にならなかった。何もかも胸に宿る幸せが食らいつくし、飲み込む。外の世界が消えたと言われても今の帝人なら大人しく受け入れるだろう。
「好き、本当に好きです。どうしてだろう、なんでこんなに好きなんだろう。どうしてですか」
「……どうしてだろうねえ」
「でも、いいです。好きだから。臨也さんは、僕のことが好きですか……」
やはり臨也は答えなかった。今彼がどんな顔をしているかは、彼の胸に顔を埋めているから分からない。だが、もうどうでもよかった。帝人は考えることを止め、胸中で脈打つ感情にすべてを委ねてみせる……どうせすぐに何もかもが終わってしまうのだから。
・・・ ・・・
夏だった。
「大丈夫か、帝人、顔色悪い・・・はっ! さては、お前具合の悪いふりをして杏里の柔らか太ももに顔を埋めようと言う魂胆だな・・・! だがこの太ももは渡さないぞ! よし、帝人、俺と勝負だ!」
「竜ヶ峰君、大丈夫ですか? 本当に顔色悪いですけど・・・」
自分も、二人も半袖を着ていた。まだ、そんな季節じゃない筈だ。頭上に照りつける太陽も、今ほどぎらついている筈はない。今はいつなのだ、と混乱して携帯を見ると七月の上旬であること示している。夏だ。夏でしかない。さっきまで、臨也といた筈だった。あの大雨の中、暗い部屋で二人きり……帝人の記憶の最後はそれがいた。それが最後尾で待ちかまえている。このようなあまりにも突飛な状況移動が現実にありうる筈ない。ならば、これは夢か? しかし、帝人は汗をかいていた。濡れてひっついたシャツとわずかに自身から立ち昇る汗の匂いはあまりにもリアルだ。夢、現実、夢……強く拳を握れば確かに痛みが感じて、
「・・・・・・本当に顔色よくないな。どっか入って涼むかー? ここいらなら何でもあるし、帝人の家帰るよりは早いしな。杏里は時間平気か?」
「はい。大丈夫です」
「よし、クーラーががんがんに利いてるとこ入って冷たいコーラでも飲ませりゃ治るだろ。おい、帝人歩けるか? 俺は男はおぶらない主義だから、歩けないなら引きずってくことになるが・・・」
「正臣・・・正臣、だよね?」
「おいおい、いよいよ大丈夫かよ。こんなイケメン紀田正臣様しかいないだろうが」
どういうことなのか。確かに、正臣はゴールデンウィークに失踪した筈だった。だが、今彼は当たり前のように帝人の前にいて、杏里もそれが当然であるように振る舞っている。一体、何があった。今は七月だからざっと二ヶ月分の記憶が抜けている計算になる。この状況から考えるに、その二ヶ月で正臣が戻ってきてまた元通りになるようなことがあったと考えるのが自然だが、そうすると今度はどうして記憶を失っているのだ、ということになる。そして、先ほどまで側に居た臨也。世界からその存在を認識されなくなった彼は一体――帝人並に戸惑う二人をそのままにし、帝人は臨也に電話をかけることにした。彼ならば、不可思議な問いに対する答えを持っている気がしたからだ。
電話帳で検索し、いざかけようとするが、何故か臨也の番号は見つからない。それどころか携帯に登録された折原臨也、の名前すら見つからなかった。着信履歴を漁っても、メール履歴を漁っても同じことだ。この携帯には折原臨也の名残が何一つ残っちゃいない。
「あの、竜ヶ峰君、本当に大丈夫・・・?」
「正臣!!」
「うお、なんだよ大声出して」
「臨也さんの番号分かる!?」
詳しくは知らないが、確か正臣と臨也は知り合いだった筈だ。誰にも認識されなくなった臨也だが、しかし失踪した筈の正臣が当たり前のように存在する世界ならば、もしかしたらばと、藁にもすがる思いで困惑する少年を見つめるが、彼の放った言葉は非道だった。
「臨也って、誰だ?」
がらりと、不安定だった足元が崩れていく音が聞こえた気がした。
「っ、」
「おい、どうしたよ、帝人。お前本当に様子がおかしいぞ?」
「下手にどこかに連れていくより、お家まで送った方がよさそうじゃないですか?」
「そうだな。そーすっか・・・ということで、帝人クーラーはなしだ! 残念だったな、っておい! 何だよ、今度は!」
会わなくちゃいけない。確かめなくちゃいけない。そうだ、そうだった。彼は今、誰の目にも映らなくて、誰からも忘れられていて、帝人が自身の目で確かめなくちゃこの世界に彼が存在していることを知ることは出来ない。
コンクリートの街を帝人は走った。焼け付くような太陽が照り返し、一歩走るごとに汗が流れるような暑さの中を。
もし、彼がいなかったら、と思う。いつも帝人が帰る時には部屋で待って出迎えてくれる彼がいなかったら。渦中にいる時は分からなかったが、今や臨也は帝人に必要不可欠な存在になっていた。彼がいない世界、それがどれだけ
退屈で色あせた場所か! 誰にも見えず、誰にも認識されない、世界に最早不要と宣言されたその存在を、世界で自分だけ欲している。
やがて今にも崩れそうな風情のアパートが目に入った。立ち止まることなく駈け、部屋に飛び込んだ。
「やあ」
狭い帝人の部屋に彼は、臨也は居た。この季節にふさわしくない長いコートを着て、笑っている。
「臨也、さん」
「どうしたの? まるで、世界が終わったみたいな顔をしてるね」
「僕、は・・・・・・」