幸福な夢を見る
どんな顔をすればいいのか分からなかった。笑えばいいのか、泣けばいいのか。だけど今は、ここにいる、彼がここにいるという事実だけで、他はいらないと思った。窓枠に腰掛けていた臨也はゆっくりとした足取りで近づいてきて、汗に塗れた帝人の額をやさしく拭ってくれる。
「よかった、臨也さんが、いて、」
「俺はいるよ。君が望む限りね」
「臨也さん、」
両手がすっぽりと帝人の頬を覆う。そうして臨也は自身の目線を帝人の目線と合わせ、顔のサイズからするとやや大きめな黒目と赤目をかちあわせる。赤の中に映る帝人の姿。
やがて息が整い始め、帝人はひとつ大きなため息を吐いて問うた。
「・・・・・・一体、何があったんですか」
空白の二ヶ月。確かにそこで何かがあった筈だ。いなくなった筈の正臣が戻ってきて、それでも臨也は認識されないまま。
「――何もなかったよ」
「そんな筈、」
「いいかい、帝人君。何も、なかったんだ、何も」
何も、何も、と繰り返されるが、そんな訳はない。
「嘘、吐かないでください」
「嘘じゃあないさ。俺は一度だって嘘は吐いてないよ・・・いいかい、帝人君。君の身には何もなかったんだ。この二ヶ月間――いや、その二ヶ月間を、君は体験しちゃいなかったんだ。だから、何かがある筈なんてないのさ」
「は? ど、どう言う、」
帝人から手を離し、芝居がかった仕草で肩を竦める臨也には、この季節にふさわしくない服装と相まって、現実感がなかった。あれだけ存在感のある人なのにおかしいと勘ぐれば、たちまちにどこもかしこもおかしいように見えてくる。臨也はまったく汗をかいていなかった。クーラーもついていないこの部屋はまるで蒸し風呂のようで、帝人はだらだらと汗を流しているというのに、涼しげな臨也の顔には一筋の汗も見えない。
「臨也、さ、」
「終わりだよ、帝人君」
窓が開けられる。風一つ吹かない凪いだ天気だったが、開け放たれた窓からは、春の柔らかい風が吹き込んでくる。一瞬の内に帝人の汗は引き、濡れていたシャツは乾いていく。
「君の物語はここでおしまいさ」
この世界には非日常が大いにあふれていた。首なしライダーという、まるで物語に出てくるような不思議を筆頭に、様々な非日常があった。帝人はそれに交わりつつ、基本的には少し離れた場所で見守ってきた――自分は非日常の中心には立てなかったが、それでいいんだと納得させながら。しかし臨也は言う。帝人こそが非日常の中心にいて物語を紡ぎ、気づいたと同時にそれはもう既に終わっていたと。
「――いいかい。友人に誘われて池袋という非日常が飛び交うと思われる世界に来た君、竜ヶ峰帝人。彼はね、何も体験しなかった、出来なかった。ごく普通の日常を送ることしか出来なかったんだ。期待したことなど何ひとつなく、凡庸で退屈な日常ばかり――あるいはそれも、得難い幸せなのかもしれないが、君は納得できなかった。折角池袋まで来たのに、そういう思いがあった。そこで君は考えた。そうして物語を作った。たっぷりのスパイスで彩られた、最高の物語をね」
「っ、」
「セルティ・ストゥルルソン、平和島静雄、君すらも知らないようなそれでも物語を彩る人間たち――そして、俺。まったく、こんな豪華なキャストをすべて物語だけの住人にするなんて、君はまったく贅沢な人間だね」
「意味が、分かりません、」
嘘だった。帝人はすべて分かっていた。この瞬間すべてを理解していた。思い出したのではない。今、息を吸った瞬間、同時に先程までの帝人自身も知り得なかった世界を象る情報を得て、理解したのだった。
この世界は虚構。日常に我慢できなかった竜ヶ峰帝人が作り上げた物語。
「分からなくてももうどうしようもないよ。どう足掻こうとも君が作り上げた物語はすぐに破綻するんだから」
外は暗かった。同時に明るくもあった。太陽は昇り続け、また落ち続ける。風は吹き、雨は止み、雹が降り、雷は消える。終局と言ってふさわしい混乱ぶり。しかしこの部屋は変わらずそのままにある。
「君は君にとって都合のいい物語を紡いだ。非日常、漫画みたいに楽しい世界。だけど、どうやらこりすぎてしまったみたいだね。物語は君の手から離れて勝手に動き始める、しかも君の望まぬ方向に。正臣君が君の手元から離れる物語なんて君は望んじゃいない。そうだろ? だから、君はやり直そうとした。無理矢理にも。だがあまりにも物語は君の遠いところに行ってしまっていて、ひずみが起きた。ひずんで、歪んで、滅茶苦茶になってしまった世界は、最早壊れるしかない」
思っても見なかった方向に動きだしてしまった物語を無意識の帝人は、今まであった非日常を犠牲にして、ごく普通の正臣がいる日常に引き戻させようとしたが、物語自身がそれを許さない。結果、物語は壊れた。ぐずぐずに、もはや取り返しのつかない程。
「でも、まだほんの少しだけやり直しは利く。ぐだぐだになりながらも紡がれた物語を消せばいいのさ。さんざん書いてページ数を増した分を破り捨てればいい。費やした時間は無駄になるけど、なんの脈絡もなく書かれたくだらない物語を後世に残すよりはずっとましじゃないかい・・・要するに君は選ぶのさ。紀田正臣が消えたままの世界か、紀田正臣が消えなかった世界のどちらかを。それとも、最初からやり直してまったく違う物語を刻むという手もあるね」
「選べなかったら?」
「ただ、終わるだけだろうね。元の君に戻るんだよ・・・ごく普通の、平凡で、そして幸福な世界に」
かつて自分が居て長い時を過ごしていた筈の世界のことを思い出そうとしたが何も浮かばなかった。何も浮かばなかったから、何も思えなかった。かつての自分が、ありきたりの日常に生きる自分が幸せなのか、不幸なのかも分からない。帝人から非日常はもう引き離せない存在なのである。折原臨也がまた引き離せない存在になってしまったのと同じで。
「臨也さんは・・・どうなるんですか・・・?」
「俺は適当に配置されるんじゃないかなあ。でも、どんな形になろうとこの物語であったことは消去されるだろうね。俺と君とのことはすべて、本来ある筈でなかったページで語られることだから。そして、君がただの日常を選ぶならば俺はすっぱり消えてしまうよ」
臨也はおそらく何もかも分かっている。帝人がすでに非日常を選択し、臨也を切り離すことないのが。だからあくまでも余裕で焦りなどみじんも見せない。多分、臨也が意気消沈した姿など、彼自身が世界から認識されないと悟ったあの時くらいなもので、それを忘れてしまうことになるのは少し惜しいと思う。大切なもののことを何一つ忘れてしまいたくないと考えるのは、人の性だ。
大切。そうだ、臨也は帝人にとって大切な人間だった。正臣や杏里と同じ位置にランクされるようになっている。
それでも、何故彼がそこにいるのかという疑問はある。始めにあった物語の中でも、それほど彼らは密接に結びついていない。もっと非日常で、もっと帝人を導ける人間はいた筈だ。
「何故、貴方なんですか? 僕にとびっきりの非日常を提供するのなら、もっとふさわしい人物がいたんじゃないですか」