Secretary
終.
二日ほどして、三島はまたゆかりに電話をかけた。先日の礼を言うためだった。しかしそこで、ゆかりは思わぬことを言った。
「記憶が戻ると、記憶がなかった時間のことを忘れてしまうことがあるんだって」
「それは……私がなくなるということですか」
「うん」
黙りこんでしまった三島に、ゆかりは続けて言った。
「きっと先生が、吾郎ちゃんを連れていったのかもしれないわ。先生、吾郎ちゃんがいないとダメだって言ってたから」
「では私は」
「三島さんは、あの日から三島さんの時間を生きているんでしょう?夢を見なくなったのなら、そのままで生きなさいってことなのかも」
生意気なこと言ってごめんなさい、とゆかりは静かに言った。
電話の後、三島は椅子に深く座り込むと静かに目を閉じた。
ゆかりの言うように、隕石事故の日から三島は三島であった。それは吾郎として生きた時間より遥かに短いが、失えるほどの生き方はしていない。もし仮に、吾郎であったことをすっかり思い出せたとして、その先をどう生きるのか。北岡という唯一無二の存在を失った彼が果たして生きていけるのか。何かの弾みで今の自分のように、三島であった時間を求めることになったら、それは半永久的に抜け出せない迷路だ。
長い思索の後、三島はふと洗面台を思った。底には黒い栓がされていて、溜められた水の中に今までの夢や吾郎で吾郎であったことの欠片のようなものが揺蕩っている。書類の山に囲まれて、北岡はシャツの袖を捲り上げ、書斎机にかじりついてパソコンのキーを叩いたり電話をかけたりと忙しくしている。
水面に向かって、三島はゆかりが教えてくれたように
「先生」
と北岡を呼んでみた。北岡はふと気付いたようにこちらを振り向くと、笑った。そして別れを告げるかのように、手を挙げた。そのまま見ていると?吾郎?が現れて、北岡に紅茶の入ったカップを差し出した。北岡はそれを受け取ると、?吾郎?に三島の存在を教えるようにこちらに指を差す。?吾郎?は、三島に向かって丁寧に頭を下げる。北岡は、笑っている。
三島は、黒い栓の鎖に指をかけた。持ち上げると栓は抜け、そこから北岡も、吾郎も、散らばった欠片も流れ出ていった。きらきら きらきらと、光の渦を巻いて。