Secretary
翌日、二人は北岡と吾郎が住んでいた家へ向かった。ゆかりは電車でしか行ったことがなく、車では少し遠回りになったが町に近いメトロの駅から閑静な住宅地へと車は進んだ。昼間だというのに辺りに人の姿はない。人が住んでいないわけではないから、元々そういう町なのだろう。落ち着いた雰囲気のこの町に、かつて自分は暮らしていたのだ。
「ここ」
と言ったゆかりの指示で、三島はガレージの入り口に車を停めて外へ出た。玄関へ繋がる階段の下に立ち、家全体を見回した。
「建物自体は変わってないの」
長い間人の手が入らなかったことで、建物の壁には一面に蔦が這い、皹が入り浸水の浸みもある。とても人が住んでいたとは思えない姿だった。砂と枯葉とゴミが積もる階段を上りながら、ゆかりは自分の覚えていることを三島に話した。
先生はすごい弁護士、叶えられないことはなかった
「お母さんを、助けてくれたの」
「…あの病気…」
「それは知ってるの?」
「調べました」
そう、と、なぜ調べることができたのか、ゆかりは聞かす話を続けた。
先生はいつも威張っている、先生は子供がキライ、吾郎ちゃんは先生の従者で、なんでもできちゃう優しい人。二人が一緒にいれば、無敵なんだと思っていた。
階段を上りきると、錆の浮いた玄関の扉が現れた。傾いた表札に薄くだが『北岡法律事務所』の文字が読み取れる。
「ドア、開くかしら」
毎月来ているといっても、いつも外から見ているだけでここより先は見たことがない。不安そうにいうゆかりの隣で、三島は躊躇うことなくドアノブに手をかけて回しみた。
ガシャリ、と向こう側で金具が外れた音がして、扉は開いた。しかしそれは僅か一センチほどのことで、あの先は手で抉じ開けるようにしてなんとか人一人が通れるだけになった。
家の中は不思議なほど静かな空間だった。放置されていた文の汚れや劣化はあるが、家具も調度品もゆかりの記憶に残っているままだった。三島は服が汚れるのも構わず、玄関から入ってすぐのフロアを歩いて見て回った。
「夢の部屋、ここだと思うの」
ゆかりは三島の手を引いて、玄関から入って左手を示した。
陽と埃で焼けきった判例集の並ぶ階段の真正面には、天井までの高い窓が部屋と同じ幅で広がっていて、そこからは初夏の陽射しがいっぱいに入り下のフロアはまるで光の海のようだった。
三島はゆかりと共に確かめるように階段を下りた。海の中にはどっしりとした書斎机、テレビやソファもある。
そうだ、ここだ。
あの人の顔も、今でははっきりと思い出せる。
あの人はこの机に座って、私を呼ぶ。
ただそれだけのことが、とても幸せに感じていた。
「――― それだけだ」
三島は力が抜けたようになって、埃の中に膝をついた。驚いたゆかりが覗き込むと、彼は声を曇らせていった。
「北岡という人が、吾郎という私が、どんな人間だったのか ―― 私は、私の夢を埋めるために記憶を取り戻したいのではない ――」
過去などいらないと、体ごと捨てた罰だというのか。
全てを失ったようになって戻ったその夜の三島の夢に、北岡は現れなかった。幸せな気持ちになる、自分もいなかった。
窓下の花は、まだ散ろうとはしていない。