神様でもなんでもない。
翌日は朝から大忙しだ。部屋を片付け、花を飾り、スポンジを焼いて、夕食の下拵えをする。……此れじゃぁ息子の合格祝いする母親みてぇだな。浜田は自分の張り切り具合に苦笑する。一息ついたり、買い足しに行ったりしていたら、あっという間に夕暮れを迎えてしまった。『学校に行ってから、そっち行くから。たぶん夕方。』昨日の内に泉から来たメール。そろそろだろうか、と時計を見遣った時だった。ガチャガチャっ、とドアノブを捻る音がした後、チャイムが鳴る。あーはいはい……ちょっと待って、と云うと浜田は解錠し、ドアを開けた。いらっしゃい、そう云って迎えると、泉は、おーいらっしゃってやったぜ、と冷気に鼻の頭を赤くさせて、いつもの不敵な笑みを浮かべる。けれど、部屋に入ると泉の表情は一変、ぽかん、と口を開けた儘で、立ちつくした。目の前のテーブルには、テーブルクロス。其の上には、花を生けた花瓶に、氷で冷やされたワインらしき瓶。驚いた顔の儘、泉が浜田を見遣る。其れに対して、リストランテ浜田へようこそー、と云うと、珍しく”してやったり”の顔で浜田は泉は笑いかけた。
祝い事だからと、アルコール度数の低いシードルで乾杯をする。料理を口にすると、泉は一言、……うまい、と漏らす。そりゃぁ伊達にイタリアンレストランで働いてませんて、と浜田は誇らし気に云った。蛸のカルパッチョ、チキンの香草焼き、ラザニア……。以前、バイト先で仲良くなったシェフに教えてもらったものだ。浜田は普段カメリエーレとして働いているものだから、ワインを注いだり、食器の扱いは慣れている。其の手付きが何とも器用で、泉は其れに感心しながら料理に舌鼓を打った。デザートのティラミスを取り分けていると、不意に泉が、満足そうに胃のあたりを擦りながら、あーでもホントよかった、と呟く。オレも大学決まったし、浜田は服飾の専門に前から決まってるし、此れで遊べんな。そう云うと、泉は、にかっと笑って続ける。オレは憧れの六大学リーグが近づいたし、あとは大学でもレギュラー取れるように頑張らないとなー。浜田、学校何処だっけ? 浜田は、新宿、と答えると、皿に盛ったティラミスを泉に差し出す。其れを受け取りながら、じゃぁいつでも会えるな、と少しアルコールが入ったせいだろうか、泉は上機嫌で云う。
浜田はドキリとした。またあの不安が圧し掛かる。四月からは全く違う学校、しかも専門学校と大学では、生活スタイルが異なってしまう。其れでも斯うやって、一緒に過ごせるのだろうか。此の冬が終わる頃、此の幸せな日々も終わってしまうのではないだろうか。そんな暗い考えが、浜田の思考を侵食し始めた。……いけない、今日は精一杯祝うんだって決めただろ。心の中で己を叱咤すると、浜田は不安を誤魔化すように泉との会話に専念した。風呂に入って、あとは眠るだけ、と云う頃になっても、浜田の饒舌は治まらない。浜田自身、自分でも回転数が落とせないでいた。会話が途切れるのを恐れるように、浜田は泉に話を振り続ける。ベッドに腰掛けながら、泉は其れにずいぶん付き合っていたが、睡魔に誘われてか、返事も覚束なくなってきた。そしてとうとう我慢できなくなったようで、……浜田ぁ、オレ眠い、もう寝よう、と訴える。其の声にようやく口を閉じると、浜田は、ごめんな、と云い、部屋の明かりを落して、ベッドに向う。
気がつけば、浜田は泉を押し倒していた。両手首をそれぞれ押さえつけられ、泉が痛みに短い悲鳴を上げる。いってぇ……何すんだよ。怒りを顕わにし、抗議の声上げたが、浜田は一向に手を緩める気配がなかった。其れどころかどんどん強くなって行く感じがする。 …ちょっ、浜田、おいっ、返事しろったら。どうしたんだよ? おいっ、……はまっ。ぽたりと顔に雫が落ちてきて、泉は其れ以上何も云えなくなってしまった。闇に目が慣れ、カーテンを通した月明かりの中、浜田と目が合う。暫く見詰め合った後、浜田は低い声で訊ねる。 ……泉、オレのこと好きか? しんと静まり返った部屋に吸い込まれるように問いが響く。泣きながら訊ねる浜田に、泉は、好きだよ、と答えた。其れを聞くと、浜田はようやく泉の手首を開放する。そして、片方の手で泉の頬を撫でると、……オレのこと忘れないでな?と云い、弱々しく口元に笑みを刻んだ。其れを聞き、泉は、……は? 何其れ、と云うと、今だ自分に馬乗りになった儘の浜田に問いかける。
其れ如何云う意味?けれど浜田は涙を流した儘、一向に口を開こうとしない。……もしかして、最後の晩餐のつもりだったのか? ……アレ。自分で云って哀しくなったのか。泉の眉が少しハの字気味になる。其の表情の変化を見留めて、浜田は少し驚くと、気を付けて聞かないと聞き取れないくらい小さい声で話し出す。 ……泉の進路が決まってすごく良かったって思ってる。嬉しいよ、ホントに。けどな、ガキの頃からずっと一緒だったのに、4月から全く別の生活になって。泉は、泉の道に進んじゃって……、オレの傍から離れてくんだなって思って不安で。今日は精一杯祝うって決めてたのに……、こんな筈じゃ無かったんだ。そう云うと最後に、ごめんな、と呟いた。浜田の告白を聞くと、泉は仰向けのまま口を開く。
バカだな…。泉は泣きだす直前のような表情で、浜田を見つめた。バカだ、ホント浜田はバカだ。大バカ野郎だ。自分ばっかりが不安に思ってるんじゃねぇよ。オレは・・・浜田の求めてる答えでもないし、希望でもない。ましてやおまえの神様でもない。オレがいなくたって、お前は別に呼吸もできる。生きて行けるんだ。オレはただの人間で、オレだって不安なんだよ。お前が思ってるほど強くもねぇよ。 ……だいたい。自分の方が、女が多い学校行く癖によく云うよ。其の点じゃオレは、男だって云うだけで常に不利なのに。一気に云うと、泉は、小さく息を吐き、浜田の顔に手を伸ばす。頬に手を当て、バカ浜田め、そう云うと泉は困ったように笑った。其れを見た浜田の眼からぼろりと大きな雫が滴り、泉の頬に落ちた。 …冷てぇよ、と泉は抗議すると、浜田の下からごそごそと抜け出し、枕元にあったティッシュ箱から二、三枚引き出して浜田の顔を拭う。あーあ、洟も出しやがって……すげー不細工だな。ひでぇひでぇ。口の割には、其の手付きは酷く優しい。
作品名:神様でもなんでもない。 作家名:Callas_ma