みんなで、しあわせ。
「ならば、ジェイド・カーティス、我が親友」
「やめてください、気味の悪い」
「貴方は私に及ばないまでも素晴らしい頭脳と外見を持っています。そこに豊かな情緒が加わったとなればもう向かうところ敵はなし。ついでに友人を大事にすることを覚えた方がいい」
ジェイドは無言でデッキブラシを呼び出し、調子に乗って喋り続ける腐れ縁の鼻先につきつけた。
「どうした、可愛くない方のジェイド。しけた顔して」
「その呼び方はやめてくださいと、いつも言っているでしょう」
「こう呼ばないと、可愛い方のジェイドと区別がつかんからな」
グランコクマの自慢は、宮殿を囲む巨大な瀧をはじめとする水の芸術だ。一番大きな噴水を望むベンチに座るジェイドのもとに、珍しくブウサギ連れでないピオニーがやってきた。
「……また仕事をさぼっているんですか」
「今日の分は終わったさ。もう夕方だからな」
空は赤く染まっていた。……あの日の空に、あの日の彼の髪を溶かした夕日と同じ色をしていた。
「考え事を、していました」
「ふん」
ピオニーはこの国の主とも思えない気安さで、ジェイドの隣にどっかり腰を据えると、無遠慮に彼の顔を覗き込んだ。
「ケテルブルクとベルケンドから鳩が来たぞ」
「……用件は」
「ロニール雪山の奥で、超振動によく似た波動が観測されたそうだ。いちおうダアトとバチカルに確認をとったが、あっちに心当たりはないらしい。どうだ、少しは面白そうだろう」
「何故」
「それを調べてくるのがお前の仕事だろ」
「そう思うなら、将軍職なんて押しつけないで欲しかったですね」
「お前はすぐ、楽をしたがるからな」
ジェイドの主君はひとの悪い笑い方をした。いつものことだ。
「だれかがせっせとケツを叩いてやらなきゃならないのさ」
「いつになったら、その汚い口調がなおるんでしょうね」
「幼少期の交友関係による、重大なる悪影響ってやつさ」
「人のせいにしないでいただきたいですね」
軽口をたたきながら、二人は立ち上がった。暮れゆく空は、いつのまにか色を失いつつあった。
「シェリダンからアルビオールを呼んである。あれじゃ大人数は乗れないが、誰か連れていくのか?」
「ただの調査なら一人で十分ですよ」
期待、するなど。
だが彼は、ルークは、ジェイドに約束をしたのだ。
「全部終わったら、話すよ。……約束する」
みっともなく泣きわめくだけだった我儘な子供は、いつのまにかジェイドよりも遠くを見ていた。
「わかりました。約束ですよ」
「ああ。……だってジェイドには嘘つくだけ無駄だもんな」
「貴方の嘘はわかりやすすぎるんですよ、ルーク」
皆からすこし遅れて、二人。レプリカとは思えないほど実体をもって足下の大地、朽ちた階段、かつて、ホドと呼ばれていた島の幻影。
「ジェイドの嘘だってすぐわかるぜ。……どこまでが嘘かわかんないだけで、嘘ついてるのはすぐわかる」
「おや。ルークに見抜かれるようじゃ、私もまだまだですね」
吹く風もレプリカなのか。季節にしては、すこし冷たかった。
「ジェイドが隠し事をしてるときは、すっげー喋るんだよな、逆に」
「ええ。そうすれば、根掘り葉掘り、余計なことを聞かれずにすみますからね」
「そんで嘘ついてるときは、黙るんだ。な?合ってるだろ?」
ルークは得意げに胸をはった。
「そういう貴方が嘘をつくときは、……そうやって、楽しそうな顔をしてみせますね」
「……やっぱりジェイドに嘘つくのムズカシイな」
「もう降参ですか」
「難しいこと考えるのは苦手だからさ。そっちはジェイドに任せることにする」
表情から明るさを消して、ルークは一歩ジェイドの先に出る。
「でも、約束は守るからな!」
「つまり今は話す気はない、と?」
「そうそう。ちょっとくらい、俺もジェイドに秘密持ってもいいと思わないか?」
……お互い、『秘密』の内容も、それを明かす日がこないことも、悟っていた。
「そうですね。私も貴方に、隠し事をしているわけですから」
「なんだよそれ」
「貴方が話してくれたら、私も話しますよ」
「約束?」
「ええ」
先頭を行くアニスが、声をあげた。立ちふさがるのは狼にも似た魔物。仲間に追いつくべく走り出したルークの背中を、ジェイドも追った。
「兄さん」
ケテルブルクで消耗品を揃え、雪山に分け入る準備をしていたジェイドを、呼び止めたのは彼の妹だった。
「ネフリー。元気そうでなによりです」
「兄さんも。……これ」
彼女の差し出す革表紙に、ジェイドは見覚えがあった。
「これを、どこで」
「先週だったかしら。軍の定期演習があって、そのとき拾われたそうよ」
「場所は」
「雪山の奥だそうだわ。今年の雪に埋もれていたんですって」
それは、ルークの日記帳だった。
「今年の、雪ですか?」
「ええ……それって、やっぱり」
「そのとおりです」
ジェイドは濡れたあと乾いた紙をそっと剥がし、にじんで消えかけている、懐かしい筆跡に目をこらした。読めないページが、ほとんどだったが、その中に。
『……みんなが、幸せならいいと思う。難しいことはよく分からないけど、ジェイドが何か上手い方法を考えてくれないかな。……』
「難しい宿題ですね」
「え?」
「みんなが幸せになる方法、ですよ」
「あら」
ネフリーが少し、驚いた顔をした。
「ネビリム先生も、同じ事を仰ったのよ」
「そうでしたか?」
「兄さんは聞いてなかったのかしら」
ネフリーは何かを思い出す顔になって、頬に手を当てた。考え事をするときの彼女の癖。ピオニーの求婚を断ったときも、こんなふうに頬に手を当てて、長いこと考えていたのに違いない。そういえば、何故ピオニーを断ったのか、ジェイドは理由を知らなかった。知ろうともしなかったのだが。
「そうね、先生が亡くなる、すこし前の事よ。みんなが幸せになる方法があるのよ、って、先生がそう仰ったの。宿題にしておくから、考えていらっしゃい、って」
そのころなら、ジェイドはサフィールとともに、ほとんど授業にはでず、書庫での研究に没頭していた。クラスはネフリーたち年下の子供達と、すこし年かさの子供達とに別れていたから、授業に出ていても聞かなかったかも知れない。
「先生は、その答えはひとりずつ違うものだ、って仰ってから、先生の答えを教えてくださったわ」
「先生は、なんと?」
「『みんなが少しずつでいい、幸せへの努力をすること』ですって」
「そうですか」
あの頃の自分なら、答えのない問いなど意味がない、そう考えたに違いない。ジェイドはそっと、ルークの日記帳を閉じた。
「ネフリー、あなたはどう思ったんですか」
「私?……そうね、みんながちょっとずつ、我慢をすることじゃないかって、そう答えた覚えがあるわ。今なら、違う答えを出すと思うけれど」
「たとえば?」
「そうね、まず自分が幸せになること、かしら。次は、自分の隣の人、次は友達、ケテルブルクの街の人、街に来る人、……っていうふうに」
途中からは、謡うように囁くように。
「素敵ですね」
「ありがとう」
雪に包まれたこの街は、幸せな街なのだ。そう、ジェイドは思った。
作品名:みんなで、しあわせ。 作家名:梁瀬春樹