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acoustic stories / 紅花

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 慣れたもので、高さはそうでもない。
 窓から飛び降りた中空で、ゴミ箱の上に座った野良猫と目が合った。
 ひゅっと風が耳元で切れる音。鼻先をかすめる甘ったるい匂い。
 目をやった狭い路地の奥にちらっと見えたふたつの影。
 重力に逆らわない落下運動はあっというまで、厚いブーツの革底が石畳を打った。膝を曲げ、衝撃を緩和させようと深めにしゃがみこんだ足元に、少ししなびた紅花が転がっている。薄暗いところでぼんやりと灯るようなオレンジ色。路地の奥に入り込んだ女のものだろうと、さして気にも留めず、踏まないようにして表通りへ歩き出す。
 この場所で立ち止まるのは、なんとなく嫌だった。
 この花街には影がある。
 踏めば、次に踏み出す足を鈍くするような、底知れず深い影が。
 「あら、騎士様、もうお帰りですのね」
 細い路地を抜け表通りに開けた瞬間。
 突然真横から声がかけられたかと思うと、ずずいっと腕を引っ張られた。
 「っ、うわ、あ、ちょ、っ」
 「ほうらまた。何度も言ってますでしょう?ちゃんと、しきたりは守って下さいって」
 誰かを確認する前に左腕を抱きこまれ、たたらを踏む。
 その腕に真綿を多めに詰めたような柔らかさが当たって反射的に固まる。
 喉にひやりと触れる柑橘系の香水の匂い。
 近づけられたその胸の谷間に差し込まれた一輪の紅花。
 「グ、レ…ッ」
 灯かりで明らかになる赤茶けた緩いウェーブの髪。ヘイゼルの目。
 薄桃の口紅と、紡がれる透き通る声。
 「別にね、今日は気が乗らないんですスイマセンとかあっていいんですのよ?殿方なんですから、色々あるでしょうし。女に色々ありますようにね。もし、女には不慣れだとおっしゃるなら、そういう初心なお方って滅多にお目にかかれませんし、みんな目の色が変わってそれはそれは目も当てられない大変な騒ぎになるとは思いますが、最初から最後まで丁寧にご奉仕させていただくだけのこと」
 ぱっと見ただけでわかる薄化粧。それだのに、元々の肌の白さだとか端整な顔のつくりだとかで遠くの人目まで引いてしまうような、おそらくは誰に聞いても美人だ、と感嘆する類の女性だ。体のバランスというんだろうか、そういうのがおそろしく良くて。生地の薄い黒いドレスには銀の糸で花街のモチーフが刺繍されていて、耳や指を飾る清楚な細工がちらちらと控えめにきらめいていて、反射的に息を飲んでしまう。
 きれいな人だ。
 形容するのなら美しいとか、綺麗というのが当てはまる、人じゃないみたいにきれいな人だ。
 「騎士様」
 極上の笑顔が見上げていた。
 年齢は不詳。
 黙っているときれいすぎて怖い、とか、冗談もにべも無く子供が泣きだす感じの人。
 この花街きっての仕切り役で、知らない人間は間違いなくモグリだった。
 「ちゃんと聞く耳はおありですわよね?」
 凄まれているという言葉がいちばん適当だ。
 とんでもなく形のよいふっくらとした唇の端に、ほんの少しだけ皺が刻まれる。
 実に不愉快そうな。彼女はそれを隠さない。
 丁寧に丁寧に紡ぎだされる声は、優しいのに、氷のように冷えていた。
 「ぐ、グレイス…さ、ん」
 「まあ、騎士様ですから?これでも大変大目に見ていますのよ?」
 そのまま、歩き出す彼女にズリズリと引きずられるようにして、表通りを照らすカンテラの下に連れていかれる。
 無表情で怒られるのと、笑顔で怒られるの、どっちが怖いだろうか。
 現実逃避じみた二択がぼんやり脳裡に並ぶ。
 「その気がなければ花を摘んでくださいとお伝えしましたわよね。それこそ騎士様のようなお方は、肌身離さず持っていてくださいと」
 何度も何度も、と、ゆっくり言い聞かせる静かな声音には、無条件で怯んでしまう。背筋が冷たい。
 すっかり暗くなった表通りは、賑やかに人影が行き交っていた。
 冷たい風がざざあと吹き抜けていく中には、くすくすと笑う声が混ざる。
 通行人を含め、花街の住人たちの注目がこのカンテラの下の二人に集まっていた。
 「そ…そうですが、私は買うとか買わないとかの前、に」
 任務で、と名目上でしかないそれを引っ張り出してこようとした口は、薄氷みたいな微笑の前に凍りつく。
 建前なんてものは所詮ハリボテだ。
 「花を持たない殿方に寄せる女たちの思いを理解できないなんてことがありましょうか」
 騎士様に、と囁くその声の鋭利さ。
 剃刀の刃ようで、ひやっと心臓がちぢこまる。
 そして、ものすごい力で腕を引きずったのが嘘のようなしなやかな白い指先が、突き放すように軽く胸を押した。
 「それとも寄り付く女たちはその剣で振り払う?」
 小首を傾げ、剣呑としたヘイゼルの目が嘲笑う。
 「まさか!そんな」
 あるわけがない。押されて背中に当たる街路樹、そのすぐ横に花篭があった。篭に入っている今日の花は、ステラのところでみたものと同じ紅花だ。花街ありきのこの篭は、街への出入り口にはもちろん、店の入り口や通りのあちらこちらに置かれている。とりあえず男も女も入るときに身に着けときゃいい、そういうもんなんだと、飄々としていた誰かの姿がよぎる。
 本音と建前。
 浮世として隔絶された世界に敷かれているルール。
 しきたり。
 伝統として根付いた風習。
 何人も、それを前にして背く事は許されない。
 「花は人殺さぬ剣(つるぎ)、花は身を護る盾」
 歌うように、使い古された言葉を彼女は口にする。
 「あたくしの可愛い娘たちの心をさも無害なツラして傷つけてもらっては困りましてよ」
 「しか、し…、」
 「四の五の言わずに」
 にっこり、サラッと、氷点下の空気が張り詰める。
 花篭から紅花を摘んだ手に、頬をぺっちんぺっちん、叩かれた。
 敵うわけがなかった。
 そもそもどちらが道理かと問われれば、それは彼女でしかない。
 わかっている。
 「――――――ハイ。」
 「お利口ね。それでは御機嫌よう、若い騎士様。どうぞ、お花はご自身で」
 ふわっと笑って。
 ひらり、肩にかけたショールをひるがえし、彼女は踵を返す。
 直後、やったー!とか、らっきー!とか。おねえさまありがとー!とか。黄色い歓声が沸き上がった。
 ぎくりとして身構えるも、すでに遅い。
 きゃいきゃいはしゃぐ女たちの歓喜の声は、あちこちから降ってきて、恰好のおもちゃを手に入れた子供のそれに似ていた。

作品名:acoustic stories / 紅花 作家名:toro@ハチ