HONEYsuckle
受験一週間後
俺はなんだかんだ前向きにやってこれてはいるけれど、元来の楽天家というわけではなくて、いつも空を仰いで背筋を伸ばしていなければ挫けそうだし、いつもなにかを追い掛けていなければ、空っぽになってしまいそうで怯えてる。でもそれを無意味な虚勢だとは思わないから、俺は信じて貫いてきたのだ。意地張って胸に貼り付けた度量は偽物なんかじゃない。見せ掛けの強がりが生んだ勇気でも、憧れのヒーローを真似た正義でも、自分の中に確かにあると思えば本物にだってなる。俺は今でも信じてる。だから初めはたとえ嘘でも、好きな人の幸せが一番の願いだと考え続ければ、きっといつかは本当の気持ちになると思ってた。身勝手を押し込めて大切な人のためにする我慢は、決して偽物の優しさじゃないと。
鬼道が受験を終えた頃には既に冬の気配は弱まり、芽吹く日を待つ木々は濁り始めた淡い空に目一杯に手を伸ばしていた。届くはずないが円堂にはそれが親の腕に抱き上げられることをせがむ子供のように見えて、拙い言葉でそれを伝えれば、何だか一回り大人になったような鬼道は緩やかに笑顔を浮かべ、らしくないことを言うなと寂しそうに呟いた。
「それでさ、俺ずっと考えてたんだけど、卒業式も終わったし旅行しようぜ」
「…二人でか」
「そう。親には友達と卒業旅行だって言ってさ」
「まあ悪くはないな」
「だろ!」
円堂は持っていた紙袋を開けると何冊もパンフレットを取り出してテーブルに並べた。店には他にも同じようにして計画を立てる女子高生達がぽつぽつと点在して見られ、鬼道はそれらの人に負けず劣らず準備が良い円堂に驚き感心もする。
「知り合いのいない所が良いもんなー。やっぱ日本海側かな、東北とか四国でも良いし」
積まれた紙の束を漁ってみれば海外の案内も含まれていたが、円堂は慌てた様子でそれを隅に追いやった。これは憧れであって現実的には無理だと笑う。
「これなんてどうだ?信州食べ歩き」
「イマイチだな」
「あ、やっぱ?」
積まれたパンフレットを捲っては首を捻り、じゃあこれは、ならこっちは、と延々続く。ずっと悩んで決められなくて、ああだこうだと言い合っていられたら、それはそれで幸せだと円堂は思った。
隣の席の客がまた変わった。数えていた間だけでも、これで二組目だ。一年も前に二人でファーストフード店に居座ったあの日とは違い、テラス席に寝そべった犬は温かな日差しに照らされている。それを横目で眺めていたら、鬼道にテーブルの下で足を小突かれた。
「こらサボるな」
そう言う鬼道自身も手を止めメニュー表を開いてニヤニヤと悪戯っぽく笑っていた。円堂は昔から鬼道とのそういう距離感が好きだった。思わずへらりと笑い返せば、鬼道もつられたように眉を下げる。照れ隠しなのか、ホットサンドを注文すると宣言するように言った鬼道が店員を呼び、慌てて円堂もメニュー表を開き、声を抑えて叫んだ。
「あ、あとピザも追加で!」
「…よく食うな」
指摘されて困ったように頷き、笑ってしまった。鬼道と一緒にいると食欲が際限なく沸くのは何故なのか、円堂自身つくづく不思議に思うのだ。恋は魔物のようである。
外はいつの間にか夕方だった。
鬼道はグラスに残った、溶けた氷で薄まったオレンジジュースをぼんやり見詰めて、空よりずっと白けたそのコントラストを不満げにストローでかき混ぜた。
「俺は、本当は何処だって良いんだが」
一緒に行く相手が誰かだけで、後はなんでも良いのだと鬼道は呟いた。店内は静かで、その声は円堂まで裕に届いた。鬼道に他意はなかったのだ。
「…じゃあさ」
だから据わったような声で返された円堂の言葉に、鬼道は目を見張った。淡々としていたが明らかに声のトーンは下がり、張り詰めた空気が流れていた。
「予定も目的地も、何も要らない。一週間だけ。何処でも良い。全部置いて、全部捨てて、俺と…」
机の上に置かれた携帯電話を静かに掌で隠して、懇願するような目で鬼道を見つめた。円堂は鬼道の携帯電話のアドレス帳に、消したはずの鬼道の婚約者の電話番号がいつの間にかまた登録されていることを知っている。気付いていた。
「二人で、逃げよう」
瞳の奥には底光りするような静かな覚悟が覗く。居竦めるようにも追い縋るようにも見える表情を歪ませた、そんな円堂を見るのは、嫌だった。寒気がする。それは間違っても円堂自身に対する嫌悪ではない。胸に広がったのはただ、腕をねじ切られるような、鈍くて強烈な痛み。口の中に甘ったるいような苦味が広がって顔をしかめると、鬼道は真っ直ぐに見据えてくる円堂を震える眼で見詰め返した。
「…俺と一週間、駆け落ちしよう」
円堂の目には迷いも躊躇いもなかった。その代わりに悲しみと自責を孕んだような深い色を湛えていた。自分が好きになった頃の円堂守とは近くも遠くもないそんな表情を、自分が変えてしまった尊いものを背負うようにして、鬼道は円堂の言葉を反復するように重く頷く。それだけで救われたような顔をするこの男が、堪らなく愛しくて憐れだった。耐え難いほどに。
「心中は御免だぞ」
せめてもの冗談に円堂が力なく笑ってくれたことを、鬼道は眩しいものを見るように目を細めて胸に刻む。
作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき