HONEYsuckle
家出5日目[1]
この世に永遠なんてものは有り得ない。人の生命も穏やかな時間も気持ちも関係も全ては移ろい、いつか消えていく。俺はそれを当たり前だと頭では分かっていて、一方でその残酷さに身を焦がしてる。だから心の何処かでは、有りもしない不変や永遠に限りなく近い何かが存在してくれることを願ってた。俺は諦めが悪いのだろう。
鬼道が家出して以来初めての休日の朝、少し遅くまで寝ていた円堂は起きてくるなりサッカーボールを抱えて階段を駆け下りてきた。
「鬼道!サッカーしよう!」
先に朝食を済ませて食器を洗っていた鬼道の背中を叩いて、叫ぶように言う。その目は相変わらずひっきりなしに輝いていた。鬼道はそれを見て、言うと思った、と口には出さないものの考えて苦笑する。円堂がこんな目をしているときに考えていることなんて、十中八九決まっているのだから。
「ああ…いや、でも家の手伝いを…」
「いいわよ有人くん、こんなに良い天気なんだから出掛けてらっしゃい」
「…すみません」
居候だという肩身の狭さから鬼道は申し訳なさそうに小さく頭を下げるが、それを円堂は引き摺るようにして家を出た。確かに外は良い天気だ。汚れと擦り傷が目立つサッカーボールはしっかりと円堂の脇腹に抱えられて、もう一方の手は鬼道の腕を掴んでいる。ジャージに着替えてくるべきだっただろうかと一瞬思ったが、触れた部分から伝わってくる円堂の掌の体温も、午前中の穏やかな日差しも、歩くペースも、何もかも心地よくて口を閉ざした。
「どこに行くんだ」
「河川敷!」
「…そうか」
話し掛けても円堂は腕を離さなかった。鬼道もまた離せとは言わずに、大人しく歩幅を合わせてついて行く。会話は特になかった。お互いに少しだけ話題をふって、何往復か会話のキャッチボールをし、最後には妙にあたたかな思いで言葉を切る。その繰り返し。子供と二回追い越して、自転車と五回擦れ違った。
「なあ鬼道」
「なんだ」
「…聞いても、良い?」
不思議と、円堂がその問い掛けをするときを待っていたような気がした。いつか聞かれるだろうと思っていて、答えることに怯えていたのに、円堂の静かな声を聞いた時、遂に来たかと身構える反面、何処かでほっとする自分がいた。きっと自分はきっかけが欲しかったのだ。変えられない運命を受け入れるための止めがさされることを、望んでいたのだ。たとえ引き裂かれるように胸が痛んでも。
「円堂」
名前を呼び、立ち止まって円堂を振り向かせると、鬼道はその瞳を正面から見据えた。ただならぬ様子に戸惑ったように揺れる円堂の視線が、やがて見つめ返してくるまで待って、鬼道は静かにその口を開いた。
「…俺はお前のこと、が」
その先の言葉は出なかった。円堂がそれを告げる前から顔を赤くしたのを見て、彼の思いを悟ってしまったからだった。いつの間にか、交差していた。一方通行だと思っていた感情は、二人に共通するものとなっていた。なんて残酷なことだろうと思う。鬼道は言葉を失って立ち竦んだ。ただ円堂に引導を渡して欲しかっただけなのに。
望んでいたのは玉砕だったのだ。
「すまないなんでもない」
言葉を途切れさせたまま背を向けた鬼道を呼び止めたが、黙って歩いて、少し先で立ち止まった。嘲笑うように、予め用意していたように、淡々と口を開いて足の裏を地面に押し付ける。
「父が俺の婚約を決めた。顔も知らない、会ったこともない女とだ」
「な…なんだよそれ」
「横暴だと思った。それに納得いかなくて家を出てきた」
芝居のような笑顔は吹き飛んだように姿を消していた。
「…だがもう良いんだ」
帰る、と言って踵を返し、鬼道はゆっくりと円堂の脇をすり抜けた。
「長いこと世話になって悪かったな」
最後に見た、口元だけ歪んだように持ち上げた表情が、円堂の胸に突き刺さるように焼き付いていた。笑っているようになんて見えない。取り繕えていない、ただの悲痛な表情だった。
円堂の横をすり抜けるように通り過ぎたまま、鬼道は戻らなかった。呆然と立ち尽くした円堂はサッカーボールを抱えたままで、何も言えないまま鬼道が去るのを見送って、ただただ、身動きも出来なかった。エコーのように鬼道の言葉が頭を巡って、最後に見せた、歪な表情だけが目に焼き付いている。引導を渡したのは鬼道の方だった。終わってしまってから、円堂もまたようやく自分が抱えていた思いに気付いたのだ。
それこそ身を裂く程に込み上げて、あちこちから溢れ出す。好きだと言われることも伝えることもないままに、自分達の未来は交わっていたその結び目を指が切れそうになる程の力で引き裂いて、その血でもって染めたのだ。絶ち切られて初めて、それが鮮やかな赤をしていたことに気付いた。好きだと伝えることもないままで。
作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき