二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

HONEYsuckle

INDEX|9ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

さいかい[start]


 心理テストで空といえば、手の届かないものの象徴なのだと、女子がそんな話をしているのを聞いて、俺は真っ先に鬼道の顔を思い浮かべていた。
 打ち上げるようにボールを蹴って、一度は空に向かうのに落ちてきてしまう瞬間、俺は時折鬼道のことを考える。秋晴れの空が暮れていく時分には、鬼道を目で追うときのような気持ちが降ってくる。
 そうか鬼道は手の届かない存在なのか、と思って俺は納得してしまったのだ。鬼道に対して抱えていた思いは、届かないからいつまでも膨らんでしまうのか。毎晩考えて、でも結論を出したくなくて、なのに事実は容赦ない。届かないだなんて、言われなくたって分かっていたのに。
 それでも俺は季節がいくつ巡ろうとも、会わない日がどれだけ続こうと、鬼道のことを考えるのを、やめることはなかった。


 鬼道は注文したコーヒーに手をつけることもなく、湿ったコートを脱いで椅子に深く腰掛けていた。雨は止まないが、駅まで走るには別に大きな支障もない程度におさまってきていて、円堂は鬼道が帰ると言い出すことを恐れ、ポテトを一本ずつ、ちびちびと啄むように食べ続ける。
 会話がないのは特に気にならず、むしろ何か言い出すことが恐ろしい。雨が降っているのに店内は寂しいほど空いていた。階段脇の奥まったテーブル席。逆隣はガラス張りの喫煙スペース。レジは遠く、沈黙はそのまま静寂を生む。
 どれだけの時間、黙り込んでいたかは分からない。鬼道はコーヒーが冷めても席を立ちはせず、円堂は空の紙コップを握ったまま、空気しか出ないストローを加えて飲む振りをして。鬼道の席から時計が見えないことを円堂はまるで、初めから札が揃わないババ抜きを延々とさせているようだと思った。
 外はもうすっかり暗かった。鬼道には窓も見えてはおらず、椅子に掛けたコートはもう、着れる程度には乾いている。
 不毛だと思うだろうか。会話も視線を交わすこともなく、向かい合って黙っているだけの時間なんて、鬼道にはきっと無駄だと円堂は思った。忙しいはずの鬼道を捕まえて何時間も拘束して、とても迷惑で鬱陶しいことをしているのだろうと円堂は思った。騙しているようで悪いとも思っていた。だけど帰したくない。こんな風に思っていることを鬼道が知ったら幻滅されると思って、円堂は俯き、ただの一度として目を、合わせることすら出来ないけれど。

 時計の長針が、短い針を二度追い越した頃、鬼道は黙って冷めたコーヒーに口をつけた。それから顔をしかめて溜め息をついて、そのくせ何処か満足したように、ぽつり、不味いなと呟いた。

「…夏の、全国大会以来、だよな」
「ああ。そうだな」
 これだけ長い沈黙の後で切り出すには、あまりに今更すぎる会話だったが、鬼道はさも再会を果たしたばかりのような素振りで返事をした。円堂は内心ずるい奴だと思ったが、それで少し吹っ切れた気がした。そんなのは多分お互い様なのだと思った。
「高校、もう慣れた?」
「まあ見知った顔ばかりだからな。別に不自由もない」
「俺は勉強ちょっとついて行けてないや」
 普通に笑えた、と円堂は安堵した。鬼道もまた同じことを考えていることなんて、円堂には知る由もない。外の雨は気を遣うように僅かに降り続いており、時計の針は止まらないが、どうせ誰も見てはいなかった。
「豪炎寺や風丸がいるだろう」
「いや、でもあいつらといるとついサッカーの話になっちやうし、勉強教えて貰うのもなんか違うって言うか…」
 会話に自分達以外の名前が出たことに、円堂は言い知れない違和感を覚えて言葉を途切れさせる。
「鬼道は今、数学なにやってる?」
 話を自分と相手だけの範囲に戻すと、なんとなく安心した。変なの、と思いながら、違和感の正体にはお互い何処かで気付いているような気がした。平たく言えば、他人に邪魔されたくないという感情に近くて、不安に似ている。
 鞄から出した教科書を鬼道が捲り、差し出して説明し出した。円堂が質問した、鬼道が今取り組んでいる内容は何かということではなく、円堂がついていけないという部分についての、的確で簡潔なアドバイスだった。円堂が具体的に示したわけでもないのに、鬼道は着眼点を誤らなかった。まるで昨日も同じ教室で同じ授業を聞いていたみたいだと円堂は思って、そんな錯覚にうっかり涙がこぼれそうになった。鬼道の説明は聞いていた。でも頭には入ってきていないだろうと思った。胸が痛くて、数学どころではない。半ば諦めて、流れるように教科書の上を動く鬼道の指を見つめながら、心地よい声のトーンを、耳に刻むように聞いていた。鬼道は分かっているのかいないのか、反応を求めることもなく、淡々と数式をほどいていった。
「なあ」
「なんだ」
「…彼女とは…上手くいってんの?」
 鬼道のシャーペンの動きがぴたりと止まった。
「まあな」
 短く答えた後、何事もなかったかのようにノートには文字が並べられていく。鬼道は微塵も笑いはしなかった。幸せそうな雰囲気は、気の毒なほどなにも感じられなかった。
 濁流が頭から足へ通じるような強烈な安堵が走ったことを、円堂は一瞬にして自覚した。恥と罪悪感が押し寄せた。顔が青ざめるのが分かった。
 別れてしまえば良いと考えていたことが鬼道に知られたら、それこそ自分は消えてなくなりたいと思った。
「ごめん…俺」
 指先が痺れた。冷たくなった手が、ズボンを固く握って震えていた。
「俺、鬼道を困らないように黙ってようと思ってた。違う高校に行くって分かったときも、これで言わずに済むって何処かで安心してた。でも俺…は…」
 別に道徳に従って生きることを強要されたことはない。でも最低限の人間性は、当たり前に身に付いていると思っていた。正しく生きているつもりでいた自分が情けない。
「…それでも、良いから」
 人間としての自分を、裏切るような気がしていた。
「鬼道が誰と結婚しようが構わないから傍にいたい、ってあの日言わなかったこと…ずっと後悔してるんだ…!」
 罪悪感以上に、鬼道有人という人間の正しさを踏みにじる恐怖が、背中を這うように走っていた。

 暫くして鬼道は、ぽつりと溢すように、好きだと言って、悲しそうに眉を潜めた。自分もあの日それを言わなかったことを後悔していると言って、嘲るように自分の額を掌に押し付けて喉を鳴らした。

「付き合おうか」
 鬼道は全て掃き捨てるような残酷な響きでそれを口にすると、鞄から取り出した携帯電話のアドレス帳の、一番後ろに登録されていた名前を、ゆっくりとした手付きで円堂に見せつけるように、消した。妙に洒落ていて画数の多い、華美な女の名前だったことだけを記憶に刻んで、円堂は舐めるように穏やかに頷いた。
 涙が滲んでそれ以上は何も見えなかった。

作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき