君の名は
そう笑って河合くんは島崎の席についた。すなわち、私の前の席に。何事かと目を見開く私に頓着せず、島崎の机からホチキスを取り出すと、「あいつ、何でも持ってんなぁ」と呆れた声を出しながらプリントを留め始めた。ガチンガチンと規則正しい音が響く。どうか手が震えませんように、つかアタシもしかして今日の帰り事故に合うんじゃ……といらない気を回しながら、こちらもバチバチ留めていく。私と河合くんは、一介のクラスメイト以外の何者でも無いので、こうして二人きりになると、何の話題もなかった。それにチクリと胸が痛まなくもない。これが私の三年間なのだ。この居心地の悪い空気こそが、私の三年間の集大成だ。そう思っていた。河合くんが口を開くまで。
「そういえば。応援、来てくれてたよね」
まさか気付かれているとは思わなかったので驚いた。島崎といい、野球部という人種は目が良すぎるのだろうか?うろたえた挙句、「あ、うん、まぁ……」と曖昧な答えしか出てこない私を見て、河合くんは笑う。
「やぁ、終わってからすんげぇ睨んでるからさ、俺なにかしたかなぁって思ったよ」
あぁ、見られたのか見られたんだあの人類外の不細工さを!くらくらしながら、とりあえず謝る。
「す、スイマセン……」
「いや、こちらこそ」
その言葉の意味が分からず、私はうつむけた視線を思わず上げる。河合くんは私の目を真っ直ぐ見て言った。
「せっかく来てくれたのに、負けてゴメン」
瞬間、猛烈な怒りが私を襲う。あの試合以来の強烈な怒り。熱いモノが胃の奥からせり出してくる。その勢いのまま、睨みつける。それだけじゃ収まらなくて口を開いた。
「ゴメンじゃないよ!ゴメンなんて言わないでよ!」
良く分かりません、という視線を向けてくる河合くん(そりゃそうだ)に構わず言葉を続ける。
「河合くんが謝ることなんて何一つない!応援なんてそんなのアタシが勝手にしてたんだから、気にしないでよ。河合くんの望みが叶いますようにって、アタシが勝手に思ってただけなんだから。だから気にしないで。お願いだから気にしないで。これ以上河合くんが背負うものを増やさないでよ……!」
言うだけ言って唇をかみ締めた。この人の背負うものを減らしたい。心からそう思うのに、私は何て無力なんだろう。何でこんなになんにもできないんだろう。腹がたって仕方ない。それなのに泣きそうな自分にますます腹が立つ。涙をこらえる為にうつむき、気付いた。
何言ってんのアタシ……!?ちょっと何言っちゃってんですかこの人!?
自分のしでかした事体に、思わず涙も引っ込むというものだ。私の感じるの怒りが見当違いの八つ当たり、自分勝手な思いというのは知っていた。混じりけのない本心だとしても。だからこそ、誰にも言わずに胸に秘めていたというのに、よりにもよって一番言ってはいけない人にぶちまけるとは……!顔色が真っ赤と蒼白の間を行き来する間、河合くんはじぃっと考え込んでいた。そうして、ポツンと言葉を落とす。
「……すごい、斬新な意見だ」
「……それ褒めてないよね。いや、怒ってくれて良いんだけど」
「怒るって、何で?」
心底不思議そうな顔をする河合くんに、私もまた訳が分かりません、といった顔をした。お互いきょとん、と見つめあう。私がそのとんでもない状況に我に返る前に、河合くんが笑った。この人の笑顔はいつだって眩しく見える。目を細めてしまう。
「応援してくれて、ありがとうって言えば良かったんだよな」
私はうつむいてしまう。この人の何かになれていたらいい。この人の、何か、とてもささやかな力に。なれていたらいい。
「……こちらこそ」
「へ?」
「応援、させてくれて、ありがとう」
「それ、変」
良いんだよ。本心だもん。呆れたような河合くんに私は笑いかけた。それに苦笑を返した後、そっと頭に手をやって呟く。
「もっと、見てもらいたかったな」
「へ?」
「あんな試合じゃなくてさ、もっと、もっとさ、野球見て欲しかったよ」
そう笑う河合くんに、いえ実は私一年の頃からあなたのストーカーをしておりまして、校舎の裏とかバックスタンドの隅とかから結構見てたんですけど、と告白する勇気はさすがにない。代わりに違うことを言う。「もう遅い」とは言わせたくなかった。
「大学、でもやるんでしょう?」
その言葉に、驚いたように目を見開き笑った。
「うん。そうだ」
と力強く頷くと、ふと窓の外に視線を向けた。私はその横顔を見つめる。閉めきった窓の隙間から、部活に勤しむ人たちの喧騒が聞こえた。ふと疑問がよぎるのを、私は止められない。なぜこの人はこんな所にいるんだろう?こんな、閉めきった、箱のような場所に。この人は風の吹き渡る場所、喧騒と、泥と、笑顔のあふれた場所に立つのが誰よりも似合うのに。私はそれをずっと見てきたのに。
でも、この人はまたグラウンドに立つ。早くその日が来るといい。真っ直ぐに前を見つめ、時に歯を食いしばりながら、また笑って野球をする日。私はそれを見るのだろうか。懲りもせず、見るのだろうか。分からないけれど、でも。
それはこの場所では無いのだ。それだけは分かる。身に馴染んだ空気の中でこの人を見ることはできなくなる。生物準備室の小さな窓や、特別教室へ向かう渡り廊下、同じ陽射しが降り注ぐ屋上。ほんの僅かな笑い声も聞き逃さないように、レーダーを張り巡らせるように耳を澄ましていた時間はどんどん遠ざかる。この人が、この場所でやっていた野球と同じように。あぁ、そんな日は来なければいい。
どちらも本心。かけがえのない本心だからこそ、目盛りはゆらゆら揺れ動き判断は出来ない。どちらかになんて決めようが無い。だから河合くんが「春が」と呟いたきり黙っていても何も言わなかった。春が来れば、彼はまた野球を始める。疑いようも無い事実だ。だからこそ。
春が、早く来ればいい?
春が、このまま来なければいい?
どちらかになんて決めなくていい。彼もそう思っているからこそ黙っているのだろう。どんなに辛くても、何一つ捨てようとしない、私は彼のそういうところに胸が痛くなる。
私がいたことにようやく気付いたのだろう、遠くを見ていた目がふとこちらを向いた。ばつが悪そうな顔をして「ゴメン」と言いかける。私が眉をしかめたのを見ると、そのまま口を閉じた。気まずい沈黙が落ちる。すると何がおかしかったのか、河合くんはクスクスと笑い出した。そして「ありがとう」なんて言う。面白そうな、ちょっと困ったような笑顔で。私は彼のこういうところが。
胸が痛くてどうしようもないくらい、好きだ。