君の名は
結局私はがっしりとした背中を見るだけ見て、一言も声を交じらすこと無く今日という日を終えることになる。部活に向かう楽しげな背中を最後に見届けて、ふう、と知らず知らずに込めていた緊張を溶かしてしまうようにため息をもらすと、それを見咎めた私の心優しい友人は小さな声で呟いた。
「バカ」
あんまりにも小さく優しい声なので泣きたくなる。あぁ本当に、本当にバカだよあたしは。そんなん分かってるんだけど。
「いいの」
あからさまな強がりに、友達は困ったように息をひとつつくと、優しい微笑を浮かべて私の頭を撫でた。
「今日あたし、部活だから」
気をつけて帰るんだよ、という言葉に笑って手を振りながら、教室から出て行く彼女の背中を見る。さて、とマフラーを結び、図書室に寄って気を取り直してからいつもの帰り道を歩く、つもりだった。
なーぜー、こういうときに限ってー、遭遇してしまうのー?
自分自身のあり方について真剣に問いかける。私が何をした?なんもしてねぇぞ!?ぐるんぐるんと気が遠くなるのを必死で堪えながら道の向こう側に視線を向ける。チラリと見た先には、困り果てた様子の河合くんと、可愛らしいというのに相応しい女の子。ここは黙って回れ右をすべきなのだろうか。しかしこの距離では私の姿はすでに河合くんからは確認されているだろう。では、同じく黙って通り過ぎるべきなのだろうか。悩みに悩んでチラリと二人に視線を向ける。切れ切れに聞こえる「いいじゃない、少しぐらい」という声と困ったような表情で紡がれる「ごめん、できない」とキッパリとした声。それで私は覚悟を決めた。ここは天下の公道ですよ、と知らしめるべく、堂々と、黙って俯き加減に通り抜けようとする。全体的にぎこちない動きの私の横で「もういい」と怒った声がしたかと思うと女の子は走って去っていった。
だからなぜこのタイミング!?
思わず女の子の背中に向かって片手を伸ばす私の後ろで、やれやれと、ホッとしたのを隠さない様子で河合くんがため息をつく。恐る恐る振り向くと、眉間に皺を寄せた河合くんと目が合う。
こういう時に、どうしようもないことを口走るのが私のアイデンティティなのだろうか。
「ご、ご愁傷様です!」
なぜ、それを、セレクト?
ああいらねぇこんな特性は心からいらねぇと上げたままの片手をプルプルと震わせていると、ケホン、と乾いた咳払いが聞こえた。見れば、河合くんはあさっての方向を向いたまま口元に拳を当てている。……心遣いは嬉しいのだが、肩が震えていたら何の慰めにもならない。河合くんが二回咳払いをする間、私は生ぬるい気持ちで俯いていた。そのうちにポツンと落ちた「準太に悪いことしたな」というひとり言で大体のところが分かる。つまるところ、あの子の本命は準太くんとやらで、キャプテンから野球部のスケジュールなど訊き出そうとしていたのだろう。そりゃだめだよ、と私は知らない女の子に胸の内で話しかける。やろうとしてた行為自体もだけどさ。当った先がまた間違ってるよ。君が当ったのは、野球部で一番融通の利かない男だよ?どうせだったら面白いことには目の無い男に当ればよかったのに。届かないアドバイスを送る合間にチラリと視線を上げる。河合くんが、いつも通りの表情になったことにホッとする。ならば私の間抜けな言動にも意味があるものだ、とあからさまに現実逃避の部類のことを考えながら、もう少し安心させたくて口を開いた。
「あの、誰にも、言わないので」
安心して。と続けようとした私の言葉は封じられた。
「知ってる」
河合くんは、笑っている。
あぁ、反則だ。どうしよう、その言葉と笑顔は反則だ。どうしよう。泣き出しそうになりながら、肩から落ちるカバンの持ち手をギュッと掴む。その拍子にカバンのポケットに入れた箱がカタカタと動いた。どうしよう。銀色の、包み紙。今日のあたしは持っている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!?
カァン、と乾いた高い音が響いたのはそのときだった。薄曇の空の下にも響き渡る音。聞き慣れた音に顔を上げれば、やはり見慣れた横顔がグラウンドを振り返っている。見ているうちに、言葉が自然に零れた。
「部活、始まっちゃったね」
笑う私に、「うちのヤツらは気が早いんだよなぁ」と河合くんは誇らしげに笑う。眩しい笑顔のまま「じゃ、また明日」と軽く手を振った後ろ姿に、「頑張れ」と言えたのは我ながら上出来だった。
そうして笑顔で手を振って。背中がグラウンドに吸い込まれるまで見届けて。ようやくガクリと力が抜けた。カバンがずるずる肩から落ちていくが構うものか。むしろ引きずられるようにしてしゃがみ込んでうずくまる。
「うーーーあーーーもーーーーやーーーーー」
ちくしょうチャンスの神様なぜお前はつるっぱげなんだ、前髪なんてどこにあるんだ、なぜ私はこんなに臆病なんだ。こんな思いはもう捨ててしまいたい。どうやったって叶わないと知っているならとっとと捨ててしまえばいい。このめちゃくちゃに格好悪い思いをどうして私は捨てられないのか。もう嫌だ。もう嫌だ。そう思っているのにどうして私はグラウンドを見るのを止められないんだろう。
どうしてあの人はあんなに眩しいんだろう。
答えの出ない問いかけを胸の中に閉まって立ち上がる。鼻をグスグス鳴らしても一人だ、と思うと薄ら笑いが込み上げてくる。あぁ、カッコ悪いなぁもう。トボトボ歩いているうちに、この情けない思いや情緒不安定は、もしかしたらお腹がすいているからかもしれないという現実逃避めいた考えが浮かんだので、取り急ぎキャラメルを口に放り込む。お腹が温まっていくうちに、気を取り直すことができるのだから私のたちの悪さは折り紙付きだ。だからこそ二年近くもストーカーまがいのことに従事できるのだけど。うんまぁだから。多分明日もその先も、私はあの人を見ているのだろうだから、今日何も出来なかったからといって落ち込むことは無いじゃないか。むしろ平穏無事に今日という日を終えることが出来てよかったじゃないか。長い目で見れば、私の今 日の行動は正解だった。きっと。
でも、でも、でも。私は足を徐々に速めながら顔を歪める。
明日になったら、私はあっさり今日の行動を正解だと認めているだろう。でも、今日は、今日だけは、私の決意が余りにも固かったことを悔やんだっていいじゃないか。
ピタリと足を止めて、私は後悔に沈む。本音を、本音を言えば、あれは私の一世一代のチャンスだったと思う。まぁあっさり逃してしまったわけですけれども。「あああああ」と変なうめき声が出てしまい、慌てて歩き出す。足早に、しかしよろよろと。考えれば考えるほど結論は一つだ。
決意を、固めすぎた。今日だけはそれを認めよう。あの笑顔と言葉で解けないなんて、固い、固すぎる。ダイヤなんて目じゃない。
決意なんて、せめて、このキャラメルくらいにしとけばよかった。
うっかりすると涙が出そうになるのを、歯を食いしばることで何とか耐える。甘苦いキャラメルは、私の口の中でさっさと溶けた。