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さざめき 零れ 流れる

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「ねぇ、あれ、見た?」
休み時間に密やかなささやきがクラスを通り過ぎた。なにやら、最近一日ごとにすさまじい痣を作ってくる男子がいるとのこと。名前に聞き覚えが無かったあたしが眉をひそめると、「地味な子だよ。顔は悪くないけど」と友達の声が返ってきた。情報通だ。あくまで頭の片隅にだけ置いた名前をほんの少し触れる程度の表面上に出したのは、彼が体育の授業のために校庭へ向かうのと、自分たちが移動教室のために廊下を歩くのが同じ時間帯だったからだ。
見れば、すぐに分かった。
平然と走る姿に、こちらが足を止めてしまう。男の子なんて、そりゃあ怪我ばかりしているけれど、コレはちょっとないだろう、とどこか冷静な自分が心の中でツッコミを入れた。それほどの。
一瞬、目を瞠るほどの痣を、彼は何の気もなしにさらしていた。当たり前のことみたいに。
軽やかに駆けていく後ろ姿をぼんやりと見送ってしまって、理由が分からずに首を傾げてしまう。
「どうしたの、あれ?」
クラスメイトの一人がひそひそ声で尋ねる。答える声もまた、密やかに制服の間を浸透する。
「何か、野球らしいよ。阿部、キャッチャーだから身体で球を止めてるんだって」
その言葉に、クスリと、笑いをもらして誰かが言う。
「ヘタなの?」
「そうかもね」
あんな怪我してるんだもんね。笑い声はクスクスと伝染していくのに、あたしはなぜか乗れなかった。何でだろうか。それが真実なのかもしれないのに、何かが違うと本能が言う。何でだろうか。
(あべくん、か)
すぐにまた隠れてしまうであろう名前をそっとなぞった。振り返っても、廊下に背中は見えない。華奢で、骨ばった、男の子の背中。すうっと伸びた、背筋。

「篠岡」
呼ばれた声にハッとする。視線を上げるとあの頃よりもほんの少し大人びた阿部くんが呆れた顔をしている。
「寝るなよ」
「寝てないよ」
言い返すと、苦笑を一瞬閃かせて、黙った。外見は否応無しに変わって、それなら中身はどうなんだろうか。やっぱり変わってしまうのだろうか。変わってしまうことは、いけないのだろうか。その俯きがちの無表情を見ながらぼんやりと思う。スコアをつけるあたしの指は、阿部くんのものよりどうしようもなく細くて、違う理由で指先が固い。シャーペンの影が夕焼けで長く伸びている。シャツが気付くと肌にべったりと張り付いてしまう時期はいつの間にか過ぎ去り、窓から入ってくる風は、長袖のシャツと肌の間をからりと通り過ぎていた。いつの間にか、いつの間にか変わってしまうものがある。それでも教室はいつも同じ表情であたし達を守るように囲っている。不思議な空間だと改めて思う。放課後の閑散とした教室で、なぜか二人でスコアの整理をしている。練習が無いのはテスト前だからなのに。そう思うとおかしいような悲しいような気持ちになった。
「阿部くんは」
無口な人しかいない教室に、あたしの声はシンと響く。阿部くんは何も言わずにスコアから顔を上げた。
「野球、好きだね」
声にこもったのは、授業中にすでに予習済みの例文を読むくらいの淡白さだ。だってそんなものはただの当たり前。当たり前であって欲しいと微かな祈りを見つめたノートの罫線に込めると、自分よりもずっと淡白な声が降ってくる。
「篠岡もだろ」
阿部くんの視線は、いつの間にかスコアに戻っている。その横顔のようなものに一瞬だけ焦点が合う。瞬きをして視線を逸らし、あたしもまたスコアを見つめた。
「うん」
頷くと、前の人も微かに首を動かしたのが分かる。その拍子に、少し伸びた髪もそっと揺れた。あたし達はそっとそっと微笑みのようなものを浮かべる。何かを確かめ合うように。そうしてまたぼんやりと思いを馳せた。夕焼けと一緒にやってきた過去へと。
何かは、どうしようもなく変わっていき、そして変われないものも、やっぱりどうしようもなくあるのだろうか。

その人を見たのも、やっぱり夕暮れ時だった。
その日は親から早く帰って来いと言われていたので、あたしは一人時間帯の違う帰り道を歩いていた。
部活が無いと、体が内側から「何かが足りない」ともぞもぞと訴えている感覚がある。
仕方が無いので、歩きながら肩を回したりしていた。部活を休めて嬉しいと、思う気持ちも確かにあるのに。胸の中でシーソーのように揺れる気持ちを、吐き出すみたいに身体を揺らした。変な歩き方をする女子中学生だったよなと今では思う。
そうしてフラフラと歩いていると、いつもはライトがすでに落とされているグラウンドに通りかかった。
なるほど、時間が違うというのはこういうことかと実感する。
しかも、野球だ。グラウンドで行われているのは、あの眩しい音のする硬式の野球だった。
あたしはフラフラと、どうしたって近付いてしまう。ずいぶん球の速いピッチャーが投球練習をしていたけれど、ついバッターボックスを見てしまう。あたしはあの打ち抜く音が、どうしようもなく好きなのだ。
意識的にか無意識的にかコソコソした動きになる。女子の制服をグラウンドの中の人に見られたく無くて、隠しながら近付いていった。そうして、気付いた。
ガッと鈍い音がした方向を振り返る。どこか小柄なキャッチャーが、厚い防具の上から堪え切れないように胸を押さえてうずくまっている。力なく転がるボールでチップが当ったのだと知れた。とにかく痛そうな仕草にギョッとして、ハラハラしていたあたしを代弁するかのように、隣で違う投手の球を受けていた捕手が「大丈夫か?」と声をかける。息を必死で整えようとする捕手を見てると胸が痛んだ。本当に、大丈夫なんだろうか?思わず知らない捕手を心配していたあたしは、ふと違和感を抱えて視線を転じる。
ぶつけた投手は、ただ、ゆらりと立っている。
ゾクリとした。でも、それを確信させたのは捕手の方だ。
うずくまっていた捕手は、「平気です」と駆け寄っていた捕手に小さく言うと、きつくマウンドを睨みつけた。そうして目つきを変えないまま、自然な仕草でミットを構える。当たり前みたいに。
「もう一球!」
高らかに響いた声に、投手はすうっと背筋を伸ばした。
その後どうなったかは知らない。彼が球を取れたのか取れなかったのかはあたしの知るところではない。あたしは逃げるようにグラウンドから駆け去っていたから。
何、あれ。
頭の中でぐるぐると回っていたのはそんな言葉だった。
何で、ああいうこと、できるの?
ただひたすらに駆けていく。吐き出すみたいに。足を動かす度にヒラヒラとまとわりついてくるスカートが鬱陶しくて唇を噛んだ。
怖くないのだろうか。傷つくことが。傷つけることが。
何だか泣きそうになりながら、あたしは思ってしまったことを振り払うように走り続けた。それでも、とうとう息が続かなくなって、ゆっくりと失速していく。
思ってしまった。
あたしは、あんな風には、なりたくない。
立ち止まると、今度は風でスカートがふわりと舞う。オレンジ色の道に、黒い影が鮮やかに映った。息を整えているときに、あぁとようやく思い出す。あれは、あの人だ。マスク越しでも分かる痣だらけの顔で、当たり前のように向かっていく仕草。
あの捕手、あの人だ。
キツイ表情。まっすぐな目。でも、見たのはそれだけじゃない。
作品名:さざめき 零れ 流れる 作家名:フミ