けもの道
背中にかかる負担は、想像した以上に少なかった。見ためからして細身だとは思ったが、背負ってみると見た目以上だった。質量は確かにあるのだけれど、体感する重さがなんだか欠けている。それに暑さにバテた奴にしては暑苦しさがなく、むしろ背負った瞬間はひんやりとしたような錯覚を覚えたほどだ。こなきじじいの如く重くなっていかなかったのを幸いというべきだろうか。
「そこの坂を上」
頭上から行く道を指図してくる少年は、先程から可能な限り簡潔な指示しか出さない。一歩間違えれば馬車馬のような扱いに憤りを覚えないでもないが、相手は病人なのでぐっと堪えている。
坂を上りきると、薔薇の生垣でぐるりと囲われている屋敷の横に出た。暑さのせいか、常ならば見事であろう薔薇たちもどこか萎びているように見える。
「もうここでいい」
次は左右どちらの指示が来るのかと待ち構えていたら、突き放すような口調でそう言われた。
「どうせここまで来たんだ、玄関前まで送ってやる」
「いいから下ろせ!」
少年は何としてでも下りたいらしく、背のうえで暴れ出した。どこにそんなエネルギーが残っていたんだと聞きたいほどの力がある。
「わかった!わかったから暴れんな!」
下手に落としても困るので、仕方なく言う通りに下ろしてやった。下ろせと騒いでおきながら、いざ地面に足をつけたらふらつきそうになる少年を片腕で支えてやる。
「なんだってんだ一体……」
「アイツは、はながきくから」
「は?」
少年が小さく呟いた言葉は、何の事だかさっぱり分からなかった。アイツって一体誰だ。疑問符を返しても少年は聞いてやしない。萎びた薔薇を見つめていたかと思えば、いきなり薔薇の生垣に手を突っ込んで薔薇をギュッと握りしめた。突然の奇行に一瞬頭が真っ白になって何も言葉が出て来なかったが、彼の手から流れる薔薇よりも赤々とした血を見てハッとした。
「バカ野郎っ、何やってんだ!」
「何が」
少年は顔色一つ変えずに薔薇を握り続けている。白く焼けていない肌を染めていく血を見ていられなくて、無理矢理に薔薇から手を引き剥がした。
「おまえ、血が、棘で」
「いい、別に」
怪我をしたのは少年の方だというのに、何故かおれの方が少年よりも遥かに焦っている。少年は言葉の通り本当にどうでもいいらしく、顔をついと背けた。
「いいわけねぇだろ、くそ、何かあったか」
自分がハンカチだなんて几帳面なものを持っているとは思えなかったが、一応鞄の中をあさってみる。
「いいから、手を離せ。早くしない、と……」
不自然に言葉が切れたのをいぶかしく思って顔を上げると、少年の視線の先にまた別の少年がいた。その少年は横にいる少年と同じくらいの背格好で、くせのある髪が陽を受けてキラキラと茶色に光っている。この屋敷の中から走って出てきたのだろうか、僅かに肩を上下させていた。
「仙蔵っ!」
そのくせ毛の少年はそう叫んでこちらに一目散に駆けてきた。そうか、横にいるこの少年の名前は仙蔵というのか、とじっくり思う間もなくくせ毛の少年はおれの手から仙蔵の手を奪い取った。突然の展開に驚いていると、くせ毛の少年に明らかに敵意のこもった瞳で睨まれた。そしてプイと顔を背け、仙蔵を引っ張って屋敷の入口へとスタスタと歩いていってしまった。仮にもここまで運んでやった恩人に対して、その態度はどうなんだ。感謝されるならともかく、敵視されるようなことをした覚えはないんだが。とんだ拾い物を届けてしまったもんだ。もうここにいても仕方ないので鞄を拾いあげて踵を返そうとしたところでくせ毛の少年が振り返った。
「その血、さっさと洗った方がいいよ」
直ぐには何の事だか理解できなかったが、自分の手の平をみて納得した。仙蔵の手を薔薇から引き剥がした時に仙蔵の血がついたのだ。しかもどうやら自分の手にも棘が刺さったらしい。大した傷ではなさそうなので洗うのは帰ってからでいいかと判断して顔を上げると、もう少年らは屋敷へと消えてしまっていた。