バルカ機関報告書
査察官はもはや献金攻勢を受けている汚職政治屋のことなどどうでもよくなってしまった。実のところそんなものにしおらしくショックを受けるほうが馬鹿げているのだ。政治の歴史とは要するに腐敗の歴史であって、札束が飛び交うことこそが代議制の本質なのだ。そんなありきたりなことに驚くべきではない。それよりも、海の底に沈むレビヤタンと、それに搭乗する『特殊実験体』のことを探るほうがよほど有意義ではないか?だいたいエレナはすでに十分過ぎる働きをしている。バルカの最重要機密である十人委員会のメンバーの氏名も住所も電話番号も入手したし、彼らの家族構成も判った。バルカ関連企業七百八十余社の取締役が誰で、その資本金がどれらいで、業務内容がどういったものかも明らかになった。軌道ドックで何隻のスキピオクラス巡洋艦が建造され、新型のコンミウス型装甲車両の大砲の口径が何インチかも判った。おまけにどの代議員が裏切り者で、どの代議員が偏屈かということも今や明白であった。いったいこれ以上に何を調べれば良いのと言うのだ?
エレナはもうしばらくの間、聖櫃の中を探索することを心に決めた。それは職務規定を僅かに逸脱することであったが、雀の涙ほどの司法省のボーナスのプラスαと思えばいかにもお安いものであった。
まだ見ぬ女の記憶
施設から白い家に移ってしばらくすると、ツカサの生活にも変化が出始めた。つまり社会というものと出会ったのである。子供はアニス婆さんの白い家からしばらくいったところにある小さな初等学校に通うことになった。一つ年が上のリサも同じ小学校に行くようになった。
――ツカサと言います。
子供は若い女の先生に背中を押されるようにして、初めて出会う『普通の人間』に挨拶をすることになった。
子供はそれまでにも施設という小さな人間集団の中に暮らしていたのであるが、この施設という集団は、社会というよりも『檻』と呼ぶべき実にお粗末なものであった。実験場であった施設の中にはモルモットの群れとそれを観察する人でなし共だけがいるだけで、そこでは血の通った交流というものは絶無であった。だから、ツカサは集団生活に慣れているというのに初等学校という社会になかなか馴染めなかった。ツカサはみんなでサッカーをするということが楽しいことなのだということが理解できなかったし、一緒に声を張り上げて歌うということが面白いことだということがなかなか呑み込めなかった。学力のほうは、施設の教育スタッフの努力である程度のものはあったが、スタッフ達にはツカサに一流大学に進ませようという意思は全くなかったから、そのレベルもたかが知れていた。
――自分はここでも落ちこぼれみたいだ。
だんだんに自分の置かれた状況が判ってきて、子供は大きな衝撃を受けることになった。ツカサの衝撃はそれだけではなかった。
――どうも、自分のようなおかしなのは自分だけみたいだ。あと、リサと、他の十三人の兄姉も。
驚くべきことに初等学校に通う子供達のうち、ツカサのように十四人も兄姉がいるという者は一人もいなかった。初等学校では最も兄弟が多い子供でも四人が最高であった。いや、しかしそれはまだ驚くべきことではない。カソリックの信者だという家には十人近い兄弟がいるところも珍しくはない。ツカサが本当にショックなのは、初等学校のクラスメイト達に父親と母親がいるということであった。
――パパがね。
――ママがさ。
子供達の会話であるから、そのようなフレーズがしばしば使われる。だが、ツカサには、そのようなものは最初から存在しない。クラスメイトの中には離婚をしたり、その他の事情で片親しかいない子供というのも珍しくないのだが、ツカサのように、何もないところから急にふっと生まれた人物はこれは珍種であった。
――ボクはいったいどこから生まれたんだ?
思いもよらぬ難題に、子供は愕然となった。そのようなことを子供は一度として考えたことが無かったのだ。ツカサは、そこで自分の疑問をすぐ上の姉にぶつけてみた。
――ねえ、リサのママはどこにいるの?
ツカサの問いに、リサははっと息を呑んで、そのまま口を閉ざしてしまった。少女にとってもそれこそは最大の謎であったのだろう。自分でも判らないものを他人に教えてやれるはずがない。
――ボクはどこから生まれたんだろう?
子供は、そのような疑問を解く突破口となるものが学校に行くときにアニス婆さんに教えて貰った『ヒビヤ』という聞き慣れぬ姓にあるのではと考えていた。
――ヒビヤツカサ。ボクはヒビヤツカサ。
子供はどうにも耳障りにおかしい自分の姓名を確かめるようにして呟くのだ。
――でもヒビヤって誰なんだろう?
「ねえ、ジュリアーノさん?」
土曜日の遅い午後。久しぶりに白い家に帰ってきたジュリアーノ・コレオーネに子供はそのように切り出した。リサは、初等学校でできた友人達とどこかに行っていた。ぼんやりとした弟と違って姉は、社会に適応するのが早かった。否、姉は必死に努力していたのだ。弟のほうはいつものようにぼんやりとしている。
「ジュリアーノさん、ボク、聞きたいことがあるんだ」
――君のことは生まれる前から知っている。
コレオーネの御曹司は確かにそのように言ったのだ。ツカサはそのことを覚えていた。もしもコレオーネが真実を語っているならば、彼はツカサの母親というものを知っているはずであった。もっとも、本当に存在していればの話だが。ツカサは、実のところ自分に母親や父親というものが存在するのか確信がもてなかった。
――ボクは石から生まれたのかもしれない。
屋根裏から引きずり出してきた古い絵本には、石から生まれてきた猿の物語があった。ツカサはそれを読んで、自分の両親というものが何とかという魔法の山の頂にあった石だったのではないかと疑っていた。
「ジュリアーノさん、聞きたいことがあるんだよ」
子供の重ねての問いにバルカの王は首をかしげた。
「なんだい?何か欲しいものでもあるのかい?」
若い指導者は笑って言った。子供はそれに直接、
――ボクのお父さんとお母さんはどこにいるのですか?
とは問わなかった。何となく唐突に核心に入ることが躊躇われたのだ。遠慮というわけでもないし、恐れというわけでもない。ただ、何となく、言葉にすぐに出すのが憚られたのである。
そのかわりに子供は、屋根裏で見つけてきたきれいな図鑑のことを話題にした。それは人間の歴史についての本であった。美麗な絵画や写真がたくさん掲載されており、ツカサにも何となく内容が理解できるものであった。
子供がその図鑑の中で特に興味を持っていたのが水晶のどくろと呼ばれるものであった。気味の悪い人間の頭蓋骨を型どったその工芸品は、古い時代の南米の先住民族が残したものであった。子供は、その美術品の写真の見た目のグロテスクさよりも、写真に添えられるキャプションのほうに不思議なほどひかれていた。キャプションには次のようにあった。
――オーパーツ。その場にあるべからざるもの。いったい誰がどのようにして、どのような技術をもって作ったのかわからないもの。