バルカ機関報告書
新たに始まった初等学校であったが、ツカサにとって、この集団生活はそれほど愉快なものとはならなかった。精神的にも馴染めないということもそうだが、それ以上に物理的な意味で学校生活はツカサにとって苦痛の元となった。子供は施設でのとんでもない生活が祟ったのか同じ年の子供達の平均的な身長よりもはるかに小さかった。歩く幅が小さければ、それだけ歩数を増やさなければならない。自分よりも体の大きな連中と一緒に行動するということはそれだけ体力的に負担がかかるのだ。そして負担が重なればいずれどこかで不具合を起こす。ツカサは初等学校に行くようになってからというもの、しばしば病気をして寝込むことになった。一方、姉のリサのほうはそのような事は無かった。一つ上の姉は弟と同じ環境にあったというのに――これは多分、女性のほうが成長期が早いということにも関係があるのだろう――極めて健康であり、テニスのクラブに入って、普通の人間としての暮らしにすっかり溶け込んでいた。もっとも、ここが人間の心理の面白いところなのであるが、体が小さく人見知りで内向的なツカサよりも必死に努力をしているリサのほうがずっと人間関係についての悩みが多かった。ツカサのほうはクラスメイト達のことを正確には友人とは思っておらず――ツカサにとっては世界は自分とリサ、それからアニス婆さんとジュリアーノ・コレオーネの四人だけであって、他の人間についてはほとんど考慮しなかった――それだから、相手にどのように思われるかということもほとんど気にしなかった。そして友人達のほうはといえばそんなツカサのことをちょっと変わった一番小さな弟と見なして許容していたようである。一方、姉のほうはその努力に見合うほどには友人達に好かれるということもなかった。否、リサが嫌われていたというわけではない。クラスメイト達は勝ち気な少女のことを友人と認めている。ただ姉はあまりにも多くを望み過ぎていたのだ。望み過ぎるから裏切られた時の失望が大きい。施設にいた頃からすでにその萌芽はあったのだが、姉はやることなすこと全て空回り気味なのである。そして、そのことはリサ本人も判っていたのだろう。
――ちくしょー、世の中、えこひいきばかりだ!
少女はたいした努力をしないでもまわりに許されてしまう弟に不満を抱いていたようである。だからリサはツカサに時々ではあるが小さな意地悪をすることがあった。けれど、そのような意地悪が陰湿さを増すことはなかった。リサは自分の弟のことを羨んではいたけれど、他の誰よりも弟の存在を大事に思っていたのである。
事件が起こったのはツカサが初等学校にあがって半年ほどしてからのことであった。少年はその日のことを全く覚えておらず、後に姉にいろいろと教えて貰っても事件のことを思い出すことはなく、はて、そんなことが本当に起こったのかと首をかしげることになったものである。
発端となるのは、リサのクラスでの実に些細な出来事であった。クラスで飼っている熱帯魚が、水槽のサーモスタットの不調で全滅してしまったのだ。そして、そのことをきっかけにリサがクラスメイトの少女と言い争いが起こった。小さなとるに足らない、事件とも呼べないような出来事なのだが、子供達にとってはこれは重大時であった。魚は死に、そしてリサは、そのことで熱帯魚の飼育を担当していた少女のことを名指しで非難した。リサは利発な娘であったが、丸さとか柔らかさというものが僅かに欠如していた。自分が必死に努力をする性質であるから、他人にもそれを望む傾向があった。魚を死なせてしまった少女は、確かにぼんやりとしていたと糾弾されればそれまでなのだが、だが彼女はサーモスタットの技師ではなかったから少女に責任を押しつけることは本当ならば間違いなのだ。だがリサは容赦が無かった。
――真面目に仕事をして欲しい。
魚を死なせてしまった少女には、悪意はなかったのだが、リサの弾劾は苛烈であった。そしてリサの糾弾に飼育係の少女はとうとう泣きだしてしまった。
――そこまで言わなくてもいいのではないか?
リサは正しいことをしたのであるが、クラスメイト達は必ずしも彼女を支持していなかった。リサはちょっとやり過ぎてしまったのだ。そして、状況はどんどん悪化することになった。本当であれば正しいことをしたと評されるはずのリサのほうがかえってクラスで悪者扱いされることになってしまったのである。
――前から生意気な奴だと思っていたんだ。
リサは良きにつけ悪しきにつけ目立つ少女であり、しかも言動に容赦が無いところがあったから、本人の知らない間にクラスメイト達の小さな反感をかっていたのだろう。
授業を終え、家に返ろうとしたリサはクラスメイトの生徒達に呼び止められることになった。
――あまりにもひどい言い方をしたのだから、魚を死なせてしまった子にその点については謝って欲しい!
クラスメイト達の意見を総合するとそのようになる。そして、リサの答えはこうだった。
――本当のことを言って何が悪い?
リサは憤っていたけれど、内心ではとても傷ついていたはずである。正しいと思ってやったことで非難されるのだ。この世はあまりにも理不尽である。そしてリサの断固たる拒絶に話はいよいよこじれることになった。謝れというクラスメイト達のコールにリサはたった一人で抵抗戦を繰り広げることになった。
――嫌だ。悪いことをしていないのに何故謝る必要がある。
ツカサが姉とクラスメイト達の諍いに巻き込まれるのはこのあたりからである。一緒に家に帰ろうと待っているのに姉は全く現れない。そこで心配になって一年上のクラスにツカサかやってきて見れば、姉は、全クラスメイトの十字砲火にさらされている!憶病な子供は姉の孤独な戦いをおろおろしながら、しかしどうすることもできないでクラスの戸口の所で見守っていた。と、ツカサの見ている前で、情勢はさらに悪化することになった。リサを囲んでいた女子生徒が、とうとう手を上げたのだ。リサは同じ年の子供よりもボキャブラリーが豊富で、しかも人の欠点を見つけ出すことにたけていた。たった一人でクラスメイト達を相手に舌戦の防衛ラインを構築できるぐらいだから、恐ろしく口が達者なのだ。そして、言葉でリサを言い負かすことのできないクラスメイトの一人の少女がとうとうしびれを切らしてリサの横面を平手で殴打したのだ。拍手をするような高い音が響き、リサはよろめいた。そして、ツカサは身内の劣勢にほとんど無意識のように教室の中に飛び込んでいた。もっとも、飛び込んだから何をしようというわけではない。弟は、姉とクラスメイト達の諍いの原因が判らないから、ただ、大勢でよってたかってリサのことをいじめていると思ったのだろう。
――お願い、リサに意地悪しないで。