バルカ機関報告書
興奮気味に飛び込んできた小さな子供に、リサの級友達は戸惑ったようであるが、それも一瞬のことであった。リサの横面を張り飛ばした少女は、必死の形相で哀願してくるツカサのことを鬱陶しく思ったようである。一度殴るのも二度殴るのも同じだと思ったのだろうか。彼女は、姉の罪は弟の罪とでも言う具合に、今度は背の低い子供を突き飛ばした。ツカサは体が小さく上級生の暴力に抗うすべが無かった。強く胸を押されたツカサは、床の上に無様に転倒することになった。その際に子供は後頭部を強く打った。
――ちびが、出しゃばってくるから怪我をするのだ。
みっともなく床に転がっている子供に生徒達は冷笑したが、そのようも冷笑は長く続かなかった。ツカサは頭を打って意識を失ってしまったのである。
――まずいことになったぞ……。
生徒達は、のっぴきならぬ事態になったことをここで初めて認識したようである。いや、彼らの認識というものは実は、事実の数万分の一程度のものであった。
――俺は見ていただけだから……。
――私は知らない。
もしも下級生を大怪我させてしまったということになれば、生徒達もとても困ったことになる。子供達は思いもよらない事態にすっかり恐ろしくなり誰も彼もが逃げ腰になってしまった。言い争いの熱狂も一時に冷めてしまった。そしてツカサは床にぐったりと横たわったまま全く動こうとしないのだ。リサも小さな弟の異変に慌てたようである。彼女は取りあえず紛争を放り出すと、倒れている弟のそばに駆け寄った。ツカサは息をしていたが、呼びかけに全く反応をしなかった。
――死ぬんじゃないのか?
生徒達は不安そうに顔を見合わせた。すでに、この時には、ツカサが演技をしているのではないかと疑うものは一人としていなかった。
――どうしよう。
――どうしたらいいんだ?
子供達は混乱するばかりであった。リサは思いもよらぬ事態に一番、興奮しておりいつものような冷静な判断ができなくなっていた。そうした状況で、担任を呼んでくるという馬鹿馬鹿しいぐらいに当たり前の行動ができた生徒が一人だけいた。熱帯魚を死なせてしまい、リサに糾弾された少女であった。
ツカサはすぐに病院に運ばれたが、軽い脳震盪を起こしただけで、他に大きな異常は無かった。子供は救急車の中で意識を取り戻したが、それでもショックでその日の記憶がまるまる無くなってしまっていた。
――朝、スクランブルエッグを食べたのを覚えてる。
ツカサは後々に、そのようなことを姉に話して聞かせたものであるが、実際にはその日の朝食の食卓にはスクランブルエッグは並んでいなかった。
ツカサは、その日は大事をとってアルビオン区立病院に入院することになった。アニス婆さんが子供のそばにずっと付き添ってくれることになった。リサは自分のもめ事に弟を巻き込んだことに責任を感じおり、アニス婆さんと一緒に弟のそばにずっと付き添おうとしたが、翌日も学校があるのだからと面会時間の終了と共に家に帰されることになった。区の仕事を早めに切り上げたジュリアーノ・コレオーネがリサのこと中央病院まで迎えに着てくれた。バルカの王は、すっかりふさぎこんでいるリサのことを叱責するようなことはなかった。ジュリアーノはただ黙ったままリサをアニス婆さんから引き受けると病院の前に駐めてあった車の助手席に少女を乗せると、ハンドルを握った。車内にはしばし悲しい沈思があった。
「怪我が大したことがなかったことは幸いだったね」
口を開いたのはハンドルを握るジュリアーノであった。リサは、正しいことをしたのにみんなから受けいれて貰えず、あげくに弟まで怪我をさせてしまったことに打ちひしがれていた。少女はとてもではないが口をきく気にはなれない様子であった。ジュリアーノは子供達の間でどのような事件があったのかは詳細には知らないのだろう。そして、そのことを無理に知ろうと努力することもなかった。子供達にとっては喧嘩をすることは決して無益なことではないのだ。車はオレンジの街灯の下を走り続ける。コレオーネはがっかりしている少女にこう続ける。
「ちょうど良い機会だから、話をしておこうと思う」
バルカの王は、普段リサにたいして『お嬢ちゃん』と呼ぶように、子供として扱うことがほとんどであった。だが、この時のジュリアーノはそうではなかった。彼はこの時自分の娘を一個の対等な人間として扱っていた。
「私が十九になった時の事だ。もう七年も前の話だよ。その時はまだ私の父親も生きていた。私はアルビオンの大学に通っていたよ。もっとも、通っていたとは言っても、授業にはほとんど出なかった。授業はつまらなかったからね。だからいつもシネマヴィジョンを見たり、図書館で居眠りをしていた。私は私の家では完全な落ちこぼれだった。父親はとても立派な科学者だったし、叔父さんもそうだった。母親の兄弟も立派な科学者だった。けれど、私だけは学者にならなかった。簡単に言えば頭が悪かったからだよ」
若き指導者は笑った。リサは唇をとがらせて自分の膝を見ていた。コレオーネはハンドルを握ったまま続ける。
「実際、みんな、よくそこまで一つのことを考えていられると感心するよ。私にはそんなことはできないね。私は気が多くて、一つのことを集中して考えていると、すぐに別のことが頭に浮かんでしまうんだ」
コレオーネは笑った。
「家族のみんなは私のことを嫌いはしなかったけれど、それでもあんまり評価はしてくれなかったねぇ。どうしてこういう男が生まれたのかとみんな不思議に思っていたんだ」
リサはひどい顔のまま耳だけ父親の話を聞いている。
「私には兄がいたんだが、この人がとても優秀な人だったから、余計に私の出来なさぶりが目立ってしまってね。実に困ったものだったよ」
青年は笑った。遠く前方の信号が赤に代わり、リサの乗った車が緩やかに減速する。車はやがて横断歩道の前で止まった。老女が一人、ゆっくりと横断歩道を右から左へと渡っていく。リサはそこで父親の顔を見上げた。彼女は、自分の保護者に兄弟がいたということを初めて知ったのだ。
「これは秘密の話なんだけれどね……聞きたいかい?」
少女は小さくうなずいた。
「本当のことを言うとね、アルビオンの区長には私ではなく兄がなるはずだったんだ。けれど、そうはならなかった」
「どうして?」
少女はつられて言った。それは、コレオーネの意図したそのものずばりであった。好奇心があるうちは人間というものはどんな苦境からでも立ち上がってこられるのだ。知りたいという欲求は下世話なものであるけれど、人間というものこそがその下世話なものの最たる例なのだ。
「兄は若くして列車の事故で亡くなってしまったからだよ。それが私が十九になった時のことだ。だから私は私が十九だった時のことを今でもとてもよく覚えているんだ」
コレオーネは静かに言った。
「そして、私は兄のかわりに父親の後継者になることになった。けれど、私の父親は私を後継者にはしたくはなかったんだ。父親は私のことがあまり好きではなかったからね」
「自分の子供なのに?」
リサは訊ねた。