バルカ機関報告書
自分のキャリアを棄ててまで正義を貫いた報酬が大惨事のスイッチを押した馬鹿者のレッテルというのではあまりにも割にあわない。
査察官は天を仰いだ。そして彼女がコレオーネのほうに視線を戻した時には、エレナのすぐ脇に、先ほど彼女を公園にまで連れ出した、陰気な影の女がいつの間にか立っていた。
青年は穏やかに笑った。そして一方のエレナのほうも、ただ敗北感に打ちのめされるようなことはなかった。彼女は真実を手にするという最大の目的に関しては全く制約を受けていないのだ。
「それでは最後に一つ……良いですか?」
「どうぞ」
「特殊実験体とは何ですか?」
「特殊実験体……」
バルカの法王はあいまいな笑みを浮かべた。そしてそのままこう答えた。
「R―GLAYは本来は人間を乗せるために作られたものではありません。もともとは神――私はこの言い方を好みません。何故ならばこの世界には神などというものは存在しないからです――つまり人間を作り出した古い時代の知的生命体の体にあわせて作られているのです。この機体が開発設計された当初、私達、普通の人間が、これに乗ることは不可能だと考えられていました。この機体を動かすのはあまりにも複雑だったからです。いや、複雑というのは完全に誤った表現ですね。全くの逆です。むしろ単純すぎるとするべきでしょう。この機体は基本的には搭乗者の脳波を読み取り、それをトレースすることによって飛行することになっているのです。本来的には操縦者は操縦桿を握る必要すら無いのです。機体が思考を読み取り、機体の制御の全てを行うのです。ただし、一つ問題があります。こいつが読むことのできる脳波は神の脳波であって、人間のそれではない。人間の脳波をこいつは読み取ることが出来ないのです。そこで作られたのが特殊実験体と呼ばれる遺伝子操作を受けた人間でした。彼らはこの機体に乗るために生まれてきた一種の異能者です」
バルカの王の話は続く。
「彼らは、セシリアでサルベージをされたかつての異星人達の遺物の中にあった受精卵に人間の遺伝子を組み込んだクローン体でした。それが特殊実験体です」
バルカの王は静かに語り続ける。
「もっとも私達の技術も進歩しますからね。今は、そのような特別な人間でなくても、こいつを動かせるようになっています。コンピューターや人間の脳細胞を培養した特殊な補助がありますからね。満足いただけましたか?」
「その実験体はどうなったのですか?」
「興味がおありのようですね?」
「非常に」
「もしも全てが首尾よく終わったら、貴女にも紹介するとしましょう」
地下実験場での会話はそこでようやく終わった。
少年は恋をし少年は恋をする
「ツカサ、おい、ツカサ」
休憩時間にぼんやりと、教室から窓の外を見ていたツカサは、自分の名前が呼ばれているのに気がついたが、それだからといって声の主のほうを慌てて振り返るということもなかった。少年は自分を呼ぶ者が誰であったかを知っていたし、相手が自分に問いかける理由がどうせ大したものではないか、悪くすればロクでもないものだということも判っていたからである。
「おい、ツカサ、ちび助!」
ツカサはようやく声の主のほうに目をやった。子供の視線の先には手足の長い黒人の少年が立っていた。レオンという名前のその背の高い少年はツカサのクラスメイトであった。それもただのクラスメイトではない。算数のできない生徒達が強制的に放り込まれる特習クラスでのクラスメイトであった。ツカサは施設にいた時から算数の教育スタッフをてこずらせるほどの数字嫌いであったが、それは初等学校の高学年になっても全く変わらなかった。ツカサはそれほど頭の悪い子供ではなかったが、理由が見いだせないことには――そう判断するのはもちろん本人なのだが――白日夢という逃避手段をもって敢然と抵抗するという困った性質があった。
教師達はツカサに、将来、算数が絶対に必要なのだと諭したが子供は全然言うことを聞かなかった。ツカサにとって心強いことに、ツカサのような人物はツカサ一人ではなかった。
――円周率がなんだ、そんなものはくそったれだ!
〇から九までの数字で飾られたアルカトラズにぶちこまれた囚人の一人の叫びに、ツカサは大いに溜飲を下げたものである。
――そうだ、くそったれだ!
そして、そのようなアジ演説を行った人物こそがレオンであった。ツカサは高学年になるとレオンと基礎コースでも同じクラスとなったので、しばしば話をするようになったのだ。
「6年B組のリサ・オークランドっておまえの姉ちゃんなんだろ?」
レオンはツカサに聞いた。ツカサは小さくうなずいた。
「姉弟なのにどうして名前が姓が違うんだ?」
レオンはツカサと違って身体能力に優れ、スポーツは何でも得意であった。野球をやらせてもうまいし、アイスホッケーのクラブでは得点王でもあった。スキーもお手の物である。長身だからバスケにも向いている。中等学校のアメフトのクラブのコーチがそんなレオンの実力をはかりにわざわざ学校にまでやって来たというようなことも聞かれる。性格は明るく陽気で細かいことにとらわれることがなく、クラスでも目立った存在であった。一方ツカサは、運動は全く駄目で、授業のバレーボールの時にボールを顔にもらって鼻血を出したこともあった。初等学校に入ってからもう何年も経つのに背は伸びず――多少は伸びてはいるのだが、他の子供達に比べて成長がひどく遅かったのだ――クラスでも相変わらずちび扱いされている。引っ込み思案な性格は直る兆しも無い。全くもって目立たない子供であったが、それだからといって目立つ人物を妬むというようなこともない。外見に関しては全く正反対の二人だが、内容程度のほうは二人ともそれほど変わりは無かった。
「……どうしてって言われても。だから、血が繋がってないからだよ。そうアニスお婆ちゃんが言ってた」
子供は答えた。ツカサは何かあると自分の育て親のことを口にする。
――また婆ちゃんかよ。
クラスメイト達はツカサのことを笑ったが、少年は何故笑われるのかが理解できていなかった。
「血が繋がってないというのなら姉弟じゃないんじゃないか?」
黒人の少年はそのように主張した。そしてツカサは、相手にそのように言われてもなお反論するだけの根拠も自信も無かった。
――そうかもしれない。
ツカサは他人に言われると何となくそんな気分になりやすい人物であった。血が繋がらないのであれば姉弟ではなく他人だというのは全くその通りである。
ツカサが妙に黙っているのに、発言者であるレオンが不安を感じたようである。やがてツカサは深慮熟考の後に育ての親の言葉を思い出した。
「でも義理のお姉さんなんだよ。それにもうずっと昔から一緒にいるからしょうがないよ」
子供はそのように結論を下した。そう、しようがないのだ。