バルカ機関報告書
――そうだ、やっぱりマダガスカルだ!
子供は自分が導き出した結論におおいに満足した。どの海賊の本を読んでも、マダガスカルに海賊のアジトがあると書いてある。やはりここは何が何でもマダガスカルでなければいけないのだ。だが、少年はそのマダガスカルがどこにあるのか知らなかった。
と、マダガスカルに行って、自分が出会う船長にどのような挨拶をするかと真剣に考え始めた少年の思考が一瞬停止した。自習室によく知った顔がやってきたからである。
――あ、あの子だ……。
図書室に入ってきたのはフローラであった。転入生は珍しいことに一人であった。あるいは一時の過熱は過ぎ去ったのか。ツカサにしてみればやっと訪れたチャンスであったのだが、千載一遇の好機にもかかわらず少年の反応は鈍かった。普段からツカサはぼんやりとしているところがあるのだが、この時の彼はいつもに増してぐずぐずとしていた。少年は一瞬にしてパニックに陥っていたのだ。少年はどうして良いのか判らないものだからシャープペンシルの先で消しゴムをちくちくと突いていた。やがて、ツカサよりも先に転入生のほうが先に動いた。
「あなたは……」
本当に奇跡のようだが、少女のほうからツカサに声をかけてきたのだ。
「ヒビヤ君……」
「う、うん……」
子供は小刻みに頷いた。もうちょっと気の利いた切り返しをしても良いようなものなのだがツカサが切れるカードというものはほとんど最初から無きに等しかった。手札も無く、さりとてブラフもきかないのであれば、あとは気まぐれな神の恩寵にすがるより他無い。もっとも幸いにしてツカサは技術も度胸も無かったが、小さな幸運には恵まれていた。この時もそうであった。
「何を、読んでいるの?」
眼鏡の少女はツカサに訊ねた。黒目がちの少女の笑顔はツカサの目にとてもまぶしかった。
「か、海賊の本……」
ツカサは答えた。まるで仕事の最中に警官に職務質問をされた自転車泥棒のようであった。
「海賊?」
「そう。海賊」
ツカサは表情が硬い。出来そこないの埴輪の恐竜のような顔である。笑顔ではもちろんない。普通ならばこのような仏頂面をしていれば、相手の心証も悪くなるものなのだが眼鏡の少女は心が広いのか笑顔を崩すようなこともなかった。
「海賊が好きなの?」
「うん。好き」
少年は心の中で、何とか相手とうまく会話を成り立たせなければと焦り、そのような焦りせいでかえって話の内容はおかしな方向に飛んで行くことになった。
「海賊になりたいんだけれど、アルビオンには海賊船は一隻も無くて、港にあるのはフェリーだけで……。あと、フォークリフトの人と。だから、マダガスカルに行こうと思って……」
子供は頼まれもしないのに自分の人生設計を説明した。フローラは急に意味不明なことを喋り始めたツカサのことを目を丸くして見ていた。恐らく賢明な少女は海賊が何世紀も昔に絶滅したことも、マダガスカルに海賊のアジトがあったという事実がもう何百年も昔のことであるということも知っていたに違いない。知っていたけれど、彼女はそのことをツカサに指摘しなかった。これがリサであればツカサの馬鹿さ加減を悪し様に罵るはずである。だが、眼鏡をかけた少女は他人のささやかな夢を土足で踏みにじることが決して褒められる行為ではないことを知っていたのだ。小さな夢はつぶさないで夢のままにしておくのが良いのだ。そうやって多くの小さな夢を持って生きる人生はあとで振り返った時、きっとまばゆいものになるに違いない。少女はツカサを無知と嘲るかわりに次のように言った。
「でも、海賊なんて危なくない?サメに食べられてしまうかも」
少年は何かを言いかけた口のまま、息を呑むようにしばし絶句した。
「サメ?」
子供は驚愕したように言った。
「サメ?」
「サメよ。知らない?海にいるとても恐ろしい生き物よ」
「……」
子供はサメのことをもちろん知っている。そして、その獰猛な歯の一撃の凄惨さも知っていた。少年はサメが本当に怖かったのだ。恐怖は、少年の決意を揺るがせるのに十分であった。
「……僕が海賊になろうと思っていたってことはみんなに内緒にしておいて」
子供は嘆願するように言った。
「急に怖くなって他の仕事に変えたって言ったらきっとみんな笑うと思うから」
眼鏡の少女は小さく笑うと頷いた。
「海賊をやめて何をするの?」
少年はちょっと考えた。それからこう言った。
「……印刷屋」
「印刷屋さん?どうして?」
急にスケールがミクロ化したツカサの返答にフローラはそう訊ねた。
「……どうしてって言われても、何となく」
白い家のそばには小さな印刷所があった。機械がガチャガチャと動く様を入り口のところから興味深く眺めていたツカサは、そこで働く人達からマドレーヌを二つ貰ったことがあった。つまりは、その程度の理由であった。
「そう、印刷屋さんになりたいのね?」
少女が微笑んで納得してくれたのに、ツカサはようやく胸をなで下ろしたものである。そしてそこでようやく子供は自分の希望職種の第二候補が印刷工であることを認識したのである。
人間というものは自分で思っているほどには自分ことをコントロールできないものである。自分で自分のことを自制心が強いと思っている人物は結局のところ、そのような極限状態に陥った事がないというだけのことなのである。
転校生と初めて会話を交わしたその日の晩、ツカサはひどく興奮しておりなかなか寝つくことができなかった。
――綺麗な子だなぁ。
子供はベッドの上に起き上がったり、寝転がったり、ベッドを出て自分の机に向かってみたりと特に意味も無いままに遅くまでうろうろとすることになった。
――あんた、何してんのよ。
義理の姉は弟の様子が普段とあまりにも違っていることに不審に思っていたようである。
――早く寝なさい。
施設にいた時と同じく姉弟は相変わらずの相部屋であったから、弟にあまりうろうろされると姉としては満足に寝ることができない。苛々を募らせる姉にツカサは自分の異常の理由を釈明したりはしなかった。と、言うよりも少年は興奮し過ぎており、自分がおかしいということにすら気がついていなかったのだ。
――また図書室にいればあの子と話ができるかな?
ツカサにはツカサなりの計画があり、計画について思いを巡らせることは彼にとってとても楽しいことであったのだ。このような高揚感をツカサが得たのはこれが初めてのことであったのだ。もっとも、その煽りを貰うリサにとってはツカサの奇行はただの迷惑のタネでしかなかった。
――がたがたうるさいなーっ、もーっ!
翌日はテニスのクラブの早朝練習があるということもあって、リサはとうとう癇癪を起こすことになった。ツカサはそこで慌ててベッドに潜り込んだが、それでも子供が眠りに着くことはなかった。それはリサが弟を折伏し、ようやく安堵して寝息をたてはじめてもそれは同じだった。
――明日、出会ったらどんな話をしよう……。