バルカ機関報告書
ツカサは、自分を追い越していった少年が誰なのか良く知っていた。ギターがうまく、歌が得意なツカサのクラスメイトの少年。彼の歌をツカサも何度か聞いたことがあった。歌の上手な少年は、転校生のほうに当然のように歩いていくと彼女の横で歩みを止めた。二人はその場で何事か会話を交わしていたが、その内容はツカサには遠過ぎてぎて聞こえなかった。ただ、二人の笑顔だけはツカサの眼にも良く見てとれた。ツカサはその場にいる必要もなければ、誰からも必要とされていなかった。子供はジューサーで搾られてすかすかになってとしまったグレープフルーツがどんな気持ちでいるのかをその時初めて理解したのである。恥ずかしいという気持ちに近く、哀しいという気持ちに似ている。トランプで負けた時の気持ちとも似通った匂いがする。子供は、正門のところで楽しそうに談笑するクラスメイト達ではなく、自分の影を見ていた。と、そんなツカサの背後から声があった。
「あんた何してんのよ、いったい?」
声をかけてきたのはリサであった。勘の鋭い少女は、校庭の片隅でぼんやりと突っ立っている弟を偶然みとめて、テニスの練習を中断してやってきたのである。
――何かあったな……。
長いつきあいである。リサは弟の背中を見ただけで、彼がどういう心境にあるかを察する事が出来るのだ。そして、直感に秀でた少女はひどくがっかりしているの弟の影の先、正門のところに人影を二つ見つけるに至って、何が弟の身に起こったのかすぐに理解することができた。
「あれは……」
リサはツカサのクラスメイトであるマクリンのことを知っていたし、眼鏡をかけた愛らしい転校生のこともすでに知っていた。そしてツカサが、眼鏡の少女をとても気に入っていることも。
――そうか、そういうことか。
ツカサはいつも人よりテンポが二つも三つも遅れるのだ。そして、その遅れのために全ては水泡に帰してしまう。姉としては実に歯がゆいことであるが、人の性分だけはどうすることもできない。
ツカサは黙ったままうつむいていた。すでに、クラスメイト達はどこかへと去っていた。
――全く、しようのない奴だ……。
リサは無様にショックを受けている弟に呆れながらも、それだからと言ってその失態ぶりを嘲ったりしなかった。そんなことをすれば本当に弟が傷つくことを知っていたのである。だから、姉は弟をからかうかわりに弟の肩を拳で軽く二度ほど叩いた。それから彼女は、悪戯に誘うような笑顔を作るこう言った。
「もう今日は帰ろう。テニスの練習もおしまい。待ってなさい。今、着替えてくるから」
ツカサは小さく頷いただけであった。
それからしばらくしてのことであったが、ジュリアーノ・コレオーネが子供達に、転校生のことを訊ねる機会があった。
――ほら、何と言ったかな、あの転校生……。
コレオーネの話によれば、フローラの父親が、連合政府からやってきた武官であり、何度か区庁舎で折衝をしたということであった。子供達からフローラの話を初めて聞いた時に、彼が転校生の姓に示したひっかかりも、そのようないきさつがあったからだった。ジュリアーノはそのことを思い出したのである。もっとも、その時はツカサはすでに眼鏡の美少女のことを諦めていたので、コレオーネの教えてくれた最高機密も子供には全く役に立たなかったのである。
幕間 大動員
連合内部にある宗主国と殖民星の対立から生じる摩擦を最小限にするべく内乱を人為的に生じせしめ、それにより連合の瓦解とそれに伴う大災厄を防ぐ。
アルビオンの法王はエレナにそのように自彼らのスタンスを解説してくれたものである。エレナはコレオーネによる計画をはったりであるとは最初から考えていなかった。エレナがバルカの王と会って、実際に話しをするようになってから数十時間しか経っていなかったが、たったそれだけの短い間に査察官はコレオーネの性格についてかなり深いところまで捉えることができるようになっていた。何、それほど難しい ものではない。コレオーネは多くの場合、本当のことを語るということである。本当のことをを語らないということはあるかもしれない。けれど、虚偽を言うということが無いということは確かだった。彼が『どこにでも入れる』と言えば本当にどこにでも入れるのであり、『奇妙な果実を海中の中から拾った』と言えば本当に彼はどこかの殖民星で異星人が残した遺物を拾ったのだ。だから彼が『内乱が起こる可能性が高い』と言えば、それは相当に高い確立で内乱が起こるのである。そして『内乱を人工的に起こす』という点に関しては、これはバルカの王の最終決定であり、彼がそのように意図するならば、確実に『内乱は起こる』のだ。
そして、エレナは内乱を起こすというバルカの動きを止められる唯一の人物であった。止められるところまではいかなくても牽制ぐらいはかけられるだろう。
――私が連合に報告すれば、連合政府のほうからバルカへの某かの圧力がある。
エレナが提出するレポートによって、連合政府はバルカへの強制捜査を含む、ある程度の予防措置を取るだろう。取らざるを得ないのだ。そうすれば、内乱は未然に防ぐことができる。エレナはそのように計算していた。けれど、計算しては見たものの、これを実行に移すだけの決心がエレナにはつかなかった。
――貴女の行動次第で、不幸になる人の数の桁が違ってくる。
査察官はコレオーネの脅しに躊躇していたのである。
コレオーネは本当のことを隠すかもしれないが、虚偽を語ることはない。沈黙はあってもはったりや嘘はないのだ。不幸になる人の桁が違ってくると彼が言えば、本当に不幸になる人の数は違ってくるのだ。だからこそエレナの悩みは深い。これが凡庸な小役人であれば、それほど考えることも無く、バルカの悪業について尾ひれをつけて吹聴して出世争いのポイントを稼ぐところなのだろうが、エレナは、役人でありながらそのようなせせこましい役人根性からは僅かに逸れた人物であった。
――本当に良いのだろうか?何か大事なことが他にあるのではないか?
自分の職責に疑問を抱かないのが一流の官僚であり、疑問を持っても口に出さないのが二流の官僚であるという。エレナはお堅いということで性格だけならば間違いなく立派なお役人であったが、自分がおかしいと思ったことを口に出してしまうところは官僚としては完全にランク外の存在であった。
――コレオーネの言うことは正しい。内乱が起こる可能性はあるだろうし、多くの人が不幸になるのだろう。そして、人工的に内乱を起こせば不幸になる人の数が少なくなるということも事実なのだろう。
けれど、それだからと言って、バルカが主導で内乱を起こすというのは決して許されることではない。それでは、バルカの人工内乱の計画に横やりを入れるというのでは、間違いなく多くの人が不幸になるのだ。
――いったいどうしろと言うのだ!
エレナとしては怒鳴りたいところである。あるいは、
――こんなことならば事実関係を教えて貰わないほうがよほど幸せだった!