バルカ機関報告書
と叫ぶか。バルカの王からパスワードも貰わず、真相も告白されなければエレナの任務は完全に失敗に終わったわけだが、そのかわりに心労もたいしたものではなかったはずである。現実を知らされたがばかりに彼女は余計な悩みを背負い込む羽目に陥ったのだ。彼女は今や整然と並ぶ二千数百億のドミノの前に立たされているも同じであった。彼女の指先の一押しが二千億を超えるドミノの運命を支えているといっても言い過ぎではない。
――全く、何で、こんなことになってしまったのだ!
エレナはゴールドウィン家の長女であり、子供の頃から生真面目な所があった。成績は小さな頃から優秀であったが、それは彼女が天才だったからではなく努力をしてきたからである。そして、努力の甲斐があってオールドゴウルにある連合大学の法学部に入学し、官僚の登用試験に受かった。司法省に合格しなければ、彼女はきっと弁護士か検事になっていたはずである。いずれにせよ、人の羨む優れたキャリアを得たのだ。努力の果てに!だが、そのような努力の報酬がこのざまである。
――何をやっているんだか……。
それにしてもバルカの王は、何故エレナを連合の代表として選んだのだろうか。
バルカに関する報告書を書き始めては、途中でやめ、また新たに最初の一行から書き始め、そして気に入らなくなってやめて、振り出しへ。生産性のまったくない逡巡を繰り返すうちに時間は空には月が懸かり、星が出て、そして東の空が明るくなった。やがて日が昇り、小鳥が外で鳴きだす頃にはエレナは眼の下にくまをつくって冷めたコーヒーをすすることになった。
指令を全う出来ないというのは、役人としては失格である。譬え世の中が滅びようとも省のために働き、働き、働き、多くの人を踏みつぶし、後ろ指をさされ、実際にナイフで刺されるようなことになったとしても大組織の歯車として与えられた任務を完遂し、そのためには何億の人間が不幸になっても構わないというのが真に優れた官僚である。だが、エレナは、そこまで成り切ることができない。真に優れた役人は人間である以前に役人であり、そこに悩みは無い。だが、エレナは役人である以前に人間であり女性であった。そして、女性であるエレナはジュリアーノ・コレオーネという人物に恋愛感情は持っていなかったが、彼が信頼に足る人物だという見解は持っていた。
――もうちょっと様子を見るか……。
エレナは、バルカのことを探るためにアルビオンにやってきた。その期限は、一日や二日というものではない。もっとも真実に辿り着くまでとエレナは言ったが、それは一生涯をここで過ごすというわけでも無かった。それでも、査察に使える時間は、十分にあった。
――もう少し、情報を集めてみよう。報告書の制作はそれからでも十分に間に合うだろう。
コレオーネはX日が何時になるのかまでは語ってはくれなかったが、決起の日が今日、明日ということはあるまい。エレナはそのように楽観的に考えていたのであるが……。
査察と言うと、いろいろな重要施設を見て回るようイメージがあるが、アルビオンでのエレナの査察は、アークスというアルビオンの頭脳の中への侵入と、その知識をコピーすることであった。査察官はホテルの部屋に缶詰になり、情報端末のキィを叩き続け、どこかに出かけることは希であった。食事はルームサービスがほとんどで、睡眠時間は連日二、三時間であった。そこまでしてもアルビオンの知識は膨大で、バルカの十人委員会とその下部組織の全体像をエレナが捉えることは難しかった。
――数千人の人間が数年間をかけて解析するべき情報量。
エレナはアークスの総情報量をそのように見立てていた。エレナの努力は、大海の水を小さなスプーンで汲み上げるに等しい行為てあった。もっとも、それが無意味だったというわけではない。情報にも優劣があり、エレナは、そのうちの優れた情報本当に必要な情報だけを的確に収集していた。彼女は特にバルカの最高意思決定期間である十人委員会のことを中心に調査を進めていくという方針を初期の段階から立てていた。その中で、エレナは興味深い知識を手に入れることができた。コレオーネが語っていたかつてバルカにあったとされる『バルカが名実共に世界を支配するべきだ』という考え方を持つ人々のことである。名実合致派――エレナは勝手にそう命名した――が一番力を持っていたのは、ジュリアーノ・コレオーネがバルカを掌握する数年前のことであったという。トマス・オークランドという十人委員の一人を中心とした何人かがバルカによる連合の全支配を目論んでいたというのであった。目論むと言うのは表現として適切ではないかもしれない。彼らは、当時、すでに問題とされていた『地球と殖民星の逆転と内乱の可能性』について深刻に憂慮しており、この災厄を連合政府が切り抜ける可能性をほとんどゼロと見積もっていたのである。彼らは、連合政府に任せるよりも自分達が政権を握ることで、内乱により機動的に対応できると考えたのである。そして、そのような意見を嫌ったのがジュリアーノ・コレオーネの父親であり、当時の十人委員会委員長であったアンドレア・コレオーネであり、その長子であり、ジュリアーノの兄になるアントニオ・コレオーネであったと言う。ジュリアーノはこの時まだ大学生であり、十人委員会とは全く無関係であったという。エレナが手に入れた情報によれば、どうも、この時点ではアンドレアの後継者はアントニオであったらしい。ジュリアーノは後継者どころか十人委員会の構成員からも外れていたのである。ところが、穏健なアンドレア・コレオーネと名実合致派の対立は深刻化し、ついに流血の事態にまで発展することになった。オークランドらはアルビオンの警察組織とも言える治安局の職員達を使って、アンドレアを暗殺しようとしたのである。結局、暗殺は失敗し、かわりに息子のアントニオが夫人諸共に死亡し、そのために全く期待をされていなかったジュリアーノが抜擢されたのである。十人委員会に抜擢された当時、ジュリアーノはまだ大学を卒業したばかりであったが、人々の予想に反して、彼は就任当初から辣腕を振るうことになった。彼の初めての仕事は、以後、今日に至るまで直属の部隊となる『影を縫う者』達を用いての合致派への反撃であった。情け容赦無いと形容されるほどの捜査によって、合致派は数週間内に全員が逮捕拘禁され、オークランド他三名の委員をはじめ実に八百人もの人々が処罰された。バルカの内部抗争は外部には完全に秘匿されており、エレナもそのような内紛の話を、アークスに接触するまで聞いたこともなく、一枚岩だと思っていたバルカが存外もろいことに驚いたほどであった。もしもという仮定は無意味であるが、この時、もしも連合政府が介入してくれば、バルカを壊滅させることもできたのではないかとはエレナの考えである。もっとも、それが惜しいことであったのかエレナには良く判らなかったものであるが。ともかくこの一件でジュリアーノは、
――恐ろしい男。