バルカ機関報告書
もちろんゲームには全く関係のないことである。そして子供にとっての重大事は、多くの場合、大人にとっては耳にうるさい雑音でしかないというのが相場である。
――本当に馬鹿な子だ!
ツカサは科学者にとって育てるのが難しいタイプの子供であったと言える。
その日。
ツカサは施設の中庭でぼんやりと蟻の行進を眺めていた。ゲームのシステムは午前中ずっとリサが使っていて、ツカサは順番待ちをしているところであった。スタッフの一人が、
「リサちゃんは、午前中に五百五十点を取ったんですって。あなたも頑張らなくちゃね」
と、ツカサに発破をかけたが、子供のほうは上の空であった。彼は巣穴から出たり入ったりしている蟻のことを見ているほうがよほど楽しかったのである。
――この穴はいったいどこまでつながっているんだろう。ずっと向こうのほうまでかな。もしかしたら、魔法の国につながっているのかもしれない。そこには悪い魔法使いがいて……。
子供の興味は蟻そのものから、悪い魔法使いに移っていた。
――昔、絵本で見たことがある。あいつは王様と王妃様を石にしてしまうんだ。
と、なると自分はこんなところでぼーっとしていて良いものだろうか。英雄は、国難があれば、何が何でも剣をとらなければならないのではないか。でも、肝心の剣はどこにあるのだろうか……。
ツカサがぼんやりとしていると、足下に何かが転がって来た。英雄の剣ではなかった。ゴムでできた黄色いボールであった。ツカサはそれを拾って立上がった。
辺りを見回すとツカサからちょっと離れた所に若い男が一人立っていた。施設の人間でない事はツカサにもすぐに分かった。施設の人間であれば白衣を着て、胸には身分証明となるネームカードをつけている。だが、ツカサの前に現れた男はそのような施設スタッフの正装をしていなかった。黒いズボンにちょっと大きめの白いドレスシャツ。シャツのポケットから覗くのはサングラスだろうか。そしてズボンと同じ色のジャケットは、無造作に半分に畳まれて男の右の肩の上に――。
「あなたは誰ですかー」
子供はか細い声で聞いた。
「こんにちは、ツカサ君」
男は笑って応えた。
「僕はジュリアーノ。よろしく」
「どうしてボクのことを知ってるのですか?」
子供は驚いて訊ねた。なぜ、この男は見ず知らずのツカサのことを知っているのだろう。どこかで、会った事があっただろうか。いろいろと記憶を手繰り寄せてみるが、どうもツカサには思い当たるフシが無い。けれどもっと良く考えてみると何となく男の顔をどこかでみたような気もする。
遠い既視感。
「君のことは君が生まれる前から知っているよ」
男は言った。少年にとってはひどく衝撃的な言葉であった。生まれる前から知るなどということがあるのだろうか。いや、本人が言うのだから間違いないだろう。ツカサの世界観では、蟻の巣の向こうには魔法の国が広がっているのだ。そんな不思議なことがあっても全くおかしなことではない。
「ホントに?」
「ああ、ホントさ」
男は肯いた。
「ところで、ツカサ君。ここの暮らしは面白いかい?」
「クラシ?」
子供は聞き返した。まだ、ツカサは幼すぎて、抽象的な概念を理解することが難しい。語彙も少ない。そこで男はこう言い直した。
「ここは楽しいかい?」
子供は言葉に詰まった。何となく本当のことを言ってはいけないような気がしたのである。
「どうだい?」
子供は首を小さく横に振った。
「……そうか」
「検査をされるんだ。それで良い点を取らないと怒られちゃう。それと、ボクのことをみんな馬鹿にするんだ。あと、教育の人が怒る。書き取りのドリルの点数は普通だけれど、算数は難しくて良く判らない。そうすると、教育の人が怒るんだ。とても恐いんだよ。それでボクはすぐ泣くんだ」
「……そうか。それは困ったね」
男は優しかった。そして、また唐突でもあった。
「そうだ、ツカサ君、この施設から出たいと思わないかい?」
「ここから出る?」
子供は素っ頓狂な声をあげた。
「ここから出るの?」
「そうさ」
「そんなことをしたら怒られちゃうよ、スタッフの人に」
「何、大丈夫さ」
男は口の端に笑みを浮べて言った。
「僕は、スタッフを静かにさせる呪文を知っているんだよ。よかったらツカサ君にも教えてあげようか?」
「ホント?」
「ああ、ホントさ。この呪文があればどんなにスタッフが怒っても大丈夫。怒りはたちまち収まり、みんな笑顔になるんだ」
男は、ミュージカルの役者の身振りでもって語った。
――そうか、そんな呪文があるならば大丈夫だ。
子供は大いに感動した。
「よし話は決った。ここを脱出して旅に出る事にしよう。良いかな兄弟」
「うん、いいよ」
子供は肯いた。ツカサは施設の辛気臭さには、ほとほとうんざりしていたし、そして、外の世界には強い憧れがあった。以前、スタッフの一人が施錠を忘れた門から、ツカサは外の風景を眺めたことがあった。白樺の木の森の真ん中に一本の道が遠くまでどこまでも続いていた。この道は何処につながっているのだろう。子供は不思議に思ったものである。
「それじゃ、行こうか」
「ええっ?もう行っちゃうの?」
子供は叫ぶように言った。黒い服の男はあまりにも性急であった。
「そうさ。計画を立てて出発する旅は旅とは言わないんだ。そういうのは旅行業者にカモられたと言うんだよ。本当の旅はそうじゃない。行く先も決めないし、準備もしない。それで出発するのが旅なんだよ」
ジュリアーノの台詞に子供は妙に納得した。たしかにそう言われればそういう気もする。
「よし、行こう」
「うん、行こう」
まさにツカサの大いなる第一歩であった。そして、それが施設の中に大嵐を巻き起こす第一歩でもあった。
被験者十五号がいなくなった。
ツカサの出発に、施設のスタッフが大混乱に陥った事は言うまでもない。わずかに六才の子供が家出である。これは尋常なことではない。付近の捜索が直ちに行われ、それには施設全職員他、保安局の係官五十名が狩り出されることになった。施設上空にはヘリが二機も飛び、ついにはアルビオン治安局の捜査官までもが動員された。だが、そこまでしても失踪した少年は発見されなかった。少年は、そのころ、アルビオンを脱出して、隣のラス・カサス市の水族館で魚に餌をやっていたのである。そして、子供が大いに喜び、はしゃぎ、食べて遊んで帰って来てからの騒動は、これまた尋常な物ではなかった。
ジュリアーノの運転する車に乗って、ラス・カサス市から施設に戻って来た子供を待っていたのは怒号と喧騒であった。
――何が起こったのだろう。
子供は自分が台風の眼であることを良く理解していないから、車を取り囲むスタッフや治安局の局員が何をそう慌てているのか判らなった。やがて、この騒動の原因が自分にあるらしいことに気がつくと、子供は急に不安になってきた。