バルカ機関報告書
「じりあーのさん、どうしよう、みんな怒ってるよ……」
ツカサの不安に、青年は穏やかに笑った。
「大丈夫さ。見ていてごらん。魔法はこういうふうに使うんだよ」
ジュリアーノはそう言うと車を下りた。
――あなた、いったいどういうつもりなの!
施設の女性職員の金切り声が響き、保安局、治安局の職員達が、たちまちのうちに誘拐犯に殺到した――だが、不思議な事に、誰もが思っていた、犯罪者が捕縛されて拘束をされるという光景はついに見られることはなかった。
「何かね、この騒ぎは」
青年は当然の権利のように非難するようにして言った。その一言にまずアルビオン治安局から派遣された捜査官の足が止まった。
保安局の局員と施設のスタッフは、治安局の捜査官が何故、動くのを止めたのか判らなかったようである。そのために治安局の捜査官は図らずもスタッフ達とジュリアーノの間を隔てる壁の役割を果す事になった。
「面倒は、私よりもむしろ君達のためにならないと思うが」
青年は強い調子で言った。
「犯罪者が何を偉そうに!」
罵声を浴びせたのは、施設のスタッフであり、それはつまり科学者であった。
権力の本質を良く知る治安局の捜査官達は、苦り切った顔はしていたが、それでもスタッフ達と一緒になってジュリアーノを責めるようなことは無かった。権力を行使する人間は、いつでも自分の権限かどれほどのものかを一番良く知っているのである。
――あの男はジュリアーノ・コレオーネ。アルビオン区長の御曹司ではないか!
事情通であれば車から出て来た誘拐犯が、いかに厄介な相手かすぐに理解できたはずである。回りを取り囲む人垣の間に小さなさざめきが起り、やがて沈黙が訪れた。
ジュリアーノ・コレオーネ。
アルビオン区長であり、カオス理論の権威でもあるアンドレア・コレオーネの子息である。そして現区長アンドレアにもしものことがあればアルビオンの区長を襲って立つことが確実視される人物であった。
つまるところ科学者達にとっても保安局の局員にとっても、治安局の連中にとっても、この人物は実に嫌な相手だったのだ。
――喧嘩を売った相手が親会社のボスの息子であった!
勤め人として真っ青になるシチュエイションにも似ている。
「そこを通してもらえないだろうか。この子はもう大分疲れている。今日は遠くまで行ったから、早めに寝かせてやったほうがいいだろう」
泰然として言うジュリアーノに、異論を唱えるものはもはやいなかった。
ツカサは、この様子を車の中から眺めていた。
そして、あれほどいきり立っていた群集が、ジュリアーノの言葉で一時におとなしくなるのに興奮していた。
――すごい。じりあーのさんはホントに魔法が使えるんだ!
いや、ジュリアーノの力は魔法よりずっと強大であった。権力という力は、どんな場合でも絶対に効力を発揮するからである。
そして、この強力な力によって、誰一人として処罰されることはなかったし、あったはずの事件の存在までもがなくなってしまったのである。
「ねえ、リサ、じりあーのさんって凄いんだよ。何でもできるんだよ」
大騒ぎがあった、その夜。
リサは聞きたくもない、すぐ下の弟の夢とも現実ともつかぬ訳の判らぬ自慢話を延々と聞かされることになった。
「リサ、お寿司って知ってる?ご飯の上にお魚が乗っているんだよ。それで、おしょうゆをつけて食べるんだよ。とてもおいしいんだよ」
二段ベッドの上に寝るリサは、弟の愚にもつかぬ執拗なお喋りにうんざりとなっていた。
末の弟は、現実と頭の中の妄想をごちゃごちゃにするクセがあることをすぐ上の姉は知っていた。
――また、このチビは、おかしな事を言ってる。
現実的で、ませた少女には、現実と空想の境界面がはっきりしない弟のことが、時に魯鈍に見えるのである。
――ご飯の上に魚が乗ってるなんて馬鹿なことがあるわけがない。
リサは、ツカサの言うような食べ物のことを知らなかった。少なくともこれまでにそのようなものを食べた事が無かった。彼女はだから、生きた魚が丸ごと飯粒の上で跳びはねるという奇態な食品を頭の中で思い浮かべていた。
――そんなものがあるわけがない。いったいどうやってそんなものが食べられる?
リサは弟の妄言を哀れむように聞いていた。
「あとね、あとね、水族館にも行ったんだ。水族館って言うのはね、お魚がいっぱいいるんだよ。いろんなお魚がいたよ。リサ、知ってる?チョウチョウオっていうのがいるんだよ。黄色い色をしててね、チョウチョに似ているんだよ。リサも知ってるでしょ、お空を飛んでるチョウチョだよ。餌をあげると、食べにくるんだ。それから、イルカにも触ったんだよ。イルカはとてもお利口なんだよ。じりあーのさんが言ってた。イルカは喋ることができるんだって。でも、ボクにはキーキー言うだけで、何を言ってるのか良く判らなかった」
子供のおしゃべりは続く。そして、リサの苛々は募る。
ツカサが脱走したことで、わりを食ったのは、実はリサであった。せっかくゲームで自己記録を更新したと言うのに、ツカサの逐電によって、彼女の偉業の話は、すでにどこか遠くに吹き飛んでしまっていた。それどころか機嫌が悪くなったスタッフ達と一緒だったせいで、リサは不愉快な思いをしなければならなかった。自分よりも先に弟が外の世界に出て楽しい思いをしてきたというのも癪といえば癪な話であった。
――世の中不公平ではないか。
必死に努力をしているリサにではなく、ぼけーっとしている弟のほうがどうも恵まれている。
「あとね、あとね、帰るときにババリアを食べたんだ。ババリアっていうのはね、甘いお菓子なんだよ。イチゴの味がするんだ。とてもおいしいんだよ」
リサは不機嫌な寝返りをうった。
――このチビは、食べる事しか興味が無いのか!
「それで、それで……」
「あー、もう、うるさい!早く寝ろーっ!」
リサは叫んだ。応答は無かった。少年はチョウチョウウオとババロアの海で泳ぐ夢を見ていたのである。
幕間 バルカという組織についての考察
「これも駄目か……」
エレナはがっかりしたように言った。
携帯端末の画面には侵入不可という表示がしばらく明滅したあと、
――警告。あなたの行っている行為は連合刑法第三七三条及び、アルビオンD・U条例九十八条に抵触します。直ちに違法なアクセスをやめるように。
というオブラートにくるんだ脅し文句が続くことになるのだ。バルカの総帥との挨拶を終え、用意されたホテルに落ち着いたエレナは、この無機質な脅し画面を連続で見せられてほとんどノイローゼになりかかっていた。
「こういうことになると判っているのだから、上も専門家をよこせば良いのに……」
査察官は端末のキイを叩いて七つ目のハッキングプログラムを端末に走らせた。もっとも、この七本目の槍もバルカの強靱な盾の前にもろくも折れてしまうだろうことはエレナもやる前から何となく判っていた。
「素人同然の私に何をできるというのだろう……」