バルカ機関報告書
とバルカ内部から一目置かれるようになったという。エレナには、彼がそのように恐ろしい男には見えないのだが、それは彼女がバルカの王に処刑されたことがなかったからであろう。そしてアンドレア・コレオーネは、次男を後継者として選んだのである。
――どうも、この父子はうまくいってなかったのではないか。
資料の中には、アルビオンの王家の人々についての知識も多数含まれていたが、それに目を通していたエレナは、そのようなことを感じた。父は、出来の良い長男をかわいがり、こちらに期待をかけていたようである。一方、次男はおざなりであった。兄弟への愛情の差がいったいどのあたりから来るのかエレナにはよく分からなかったが、もしかしたらは、反対勢力への苛烈な報復から判るようにジュリアーノが普段表に出さない彼の激情を父は恐れていたのではないかとエレナは思ったものである。あるいは、もっと単純に息子の政治力を父親は嫌っていたのかもしれない。父親としてみれば息子が自身よりも優れているというのは一概に喜ばしいことではない。特に実力が伯仲してしまうと動物的なオス同士の争いになってしまうのではないか。そのことを示すような一文をエレナはアークスの中に見つけることができた。メイヤーというバルカの十人委員会の議長の議事録の中には、バルカの兄弟に関する次のような一文があった。
――アントニオは従順であるが父に似て融通がきかないところがある。一方ジュリアーノは時に融通がきき過ぎる。両者一長一短だが、人間的に共感されるのはアンドレアよりもジュリアーノのほうだろう。
メイヤーはアントニオと書くべきところを、父親の名前と取り違えていたのかもしれない。けれど、エレナはそうではないと疑っていた。メイヤーという男はアンドレアの親友であり、アントニオの名付け親でもあったということがエレナの調査で判っている。彼は間違えたのではなく、わざとそのように記したのではなかったか。
まさに事実は小説よりも奇なり。
エレナはアークスへの侵入をかなりの部分楽しんでいたのである。
エレナが陣取るホテルの部屋の扉が叩かれたのは、アルビオンの査察が始まって一週間ほど過ぎてからのことであった。すでに仕入れた情報は数千ページに及んでいたが、彼女は、その情報の一片すら連合に報告していなかった。情報に正確を期したいというのがエレナの言い訳であったが、そうすることで何か不都合なことが生じるということをエレナは恐れたのである。彼女がさまざまな知識を連合に流すことで大きな事件が起こるだろうことはエレナにも判っていた。バルカの側ではさまざまな知識を隠匿しており、その中には内乱予備というきわめて反社会的な行為も含まれているのだ。エレナとしては、バルカのことを百パーセント信頼することはできなかったが、自分の判断を信頼するよりはましであった。それに、エレナとしては腹立たしいことであるが、連合はエレナに最初から全く期待らしい期待をしていないのである。連合は査察をしたというポーズをしているだけで、エレナが事実に肉薄するのは彼らにとってはむしろ面倒な事であったのだ。断言しよう。連合はエレナが何かを掴むだろうとは全く考えていない。結局エレナは貧乏くじを引かされたのであり、査察が失敗したとしても、彼女が出世コースから外れるというそれだけのことであった。エレナは結論を先送りしていたが、それだからと言って誰も文句は言わなかったのである。実際、査察が始まってから、一度としてエレナは連合に報告を入れていなかったが――電話を初め、エレナにはなおいくつかの通信手段があった――それに対してお偉い連中からの問い合わせもなければお叱りもなかったのである。そんな彼女に面会客がやってきたのである。連合の督促ではもちろんなかった。バルカの王でもない。大学時代の友人でもなかったし、ブリスベン在住の両親でもなかった。ルームサービスのホテルのボーイでもないし、影を縫う者でもなかった。エレナにアポイントも無いままに面会を求めてきたのは品の良い身なりをした老女であった。小柄な老女は白髪の上に綺麗な紫の帽子をかぶり、小さな丸い銀の眼鏡を着けていた。彼女はレモン色の日傘を携えていた。
「あの……何か?」
見たことも聞いたこともない人物が突然やって来たのにエレナは戸惑ったが、老女のほうは穏やかに笑うばかりである。
「ここは、私の部屋ですが……」
エレナは相手の部屋の間違いを疑ったのである。
「知っていますとも。ゴールドウィンさん」
老女は言った。
「……貴女は?」
エレナは警戒して聞いた。老女は自分のことについては語らぬままに、こう続けた。
「荷物をまとめて下さいな。ここはちょっと騒がしくなりますからね」
「荷物をまとめる?騒がしくなる?」
査察官は何のことやら理解ができない。老女は続ける。
「ジュリアーノ・コレオーネからここに来るようにと言われたのですよ」
「ジュリアーノ・コレオーネから?」
エレナは小さく首を振った。ジュリアーノ・コレオーネと老婆の接点が全く見いだせなかったのだ。もしかしたら、この老人も影の一人か?エレナはそのようにも思った。
「失礼ですが、貴女は……」
「ドン・コレオーネの古くからの馴染みということにしておきましょうか」
老婆は楽しそうに笑うと続ける。
「さあさあ、早くしてくださいな。時間がありませんよ……」
「いったいどういうことなのですか?」
「十分以内にここを出てくださいということです」
「出るってどこに……。それはチェックアウトをしろということですか?」
「避難をしろということですよ。万一のこともありますからね」
「避難?何があったのですか?」
老女は微笑んで言った。
「連合の軍隊がここにやってくるのです」
「連合軍?何故?」
エレナはうろたえた。事態が全く呑み込めないのだ。だが老女の説明は簡潔であった。
「それは貴女が良く知っていることでしょう」
「私が?」
「そうですとも。バルカが何をしようとしていたか、貴女ならば知っているでしょう」
――さては内乱予備のことが公になったのか?
エレナはそのようにも考えたが、その可能性が低いこともエレナは知っていた。
――私が連合に報告していないのに、軍が動くなんておかしい。それもこんなに早く……。
口元に手をやって可能性の一つ一つを消しにかかるエレナに、老女は言った。
「さあさあ、早くしてくださいな。コレオーネの坊やも貴女がやってくるのを待っているのですよ」
エレナは状況がいまだに呑み込めなかったが、取りあえず、老女の言葉に従うことにした。エレナはプリントアウトした紙束のいくつかを部屋の中にある暖炉に放り込むと、急いで火をつけた。それから、全ての情報が入っている情報端末を取り上げると、それだけを持って、老女の所に戻った。老女はにこやかに笑うと言った。
「さあ、参りましょうか!」
老女はまるで宝島に出発するかのような雰囲気で言った。エレナとしては調子の狂うことであったが、ともかくの今は相手を信用するしかなかった。