バルカ機関報告書
老婆はエレナの先に立ってホテルの廊下を歩いていく。間接照明かぜ穏やかに照らす長い廊下にはエレナと老女以外に人影は無かった。
「あの、どこに行くのですか?そちらにはエレベーターは無いはずですが……」
エレナは老女の間違いを指摘した。老女はエレナがホテルのメインのエレベーターとは全く別の方角にエレナを導いていたのである。だが老女のほうは品良く笑うと言った。
「従業員の専用エレベーターを使います」
「そうなのですか……」
エレナは適当に頷いた。やがて二人は、ホテルの奥の目立たない小部屋にある従業員用のエレベーターの前に辿り着いた。エレナはそこで初めてこう訊ねた。
「そういえば、お名前をまだ伺っていませんでしたね」
「女王陛下のスパイ、というのはどうでしょうか?」
「……」
「前から一度、スパイごっこというのをやってみたかったんですよ」
罪無く語る老人に、エレナは曖昧な微苦笑を作るしかなかった。老女は続ける。
「アニス・ピットと申します。ドン・コレオーネの乳母をしていたものです」
「ピットさん、ですか……」
にこにこと楽しそうな老女の笑顔はどう考えてみても、切迫した状況から大きく乖離している。そのせいでエレナも緊張をするということができなかった。
「ミセス・ピット、いったい何があったのですか?軍が動き出したなんて。私は、連合から派遣されたものですが、政府とは全く連絡が途絶しているので、向こうがどうなっているか良く判らないのです」
エレベーターの扉がようやくそこで開き、エレナは老女に従って金属がむき出しになった業務用のエレベーターに乗り込んだ。
「連中ときたら不埒にもコレオーネの坊ちゃんを捕まえようとしているのですよ」
「……やはり、反乱の予備罪でですか?」
エレナはちょっと迷ってから訊ねた。老女がどこまで事実を知っているのかエレナには判らなかったのである。だがエレナの心配は杞憂であった。よそ行きの紫の帽子をかぶった老女は恐らくエレナが知らないことを含めた全てを知っているのだ。
「いいえそんなんじゃありませんよ。脱税ですよ」
「脱税?」
エレナは首を傾げた。
「本当ですか?」
「ええ。本当ですとも。貴女が政府に知らせなかったのですから、連中は、バルカが反乱を起こそうということを知りません」
「脱税の取り締まりに軍隊を派遣したのですか?まさか……」
いくらなんでもやり過ぎだろうエレナは頭を抱えた。それは縫いぐるみを縫うのにフェンシングの剣を使うようなものである。否、罪状はこの際どうでも良いのだろう。彼らにしてみれば、何でも良いからバルカの法王をとっつかまえて、後は全てを吐かせれば良いということなのだ。何とも粗暴なやり方であり、法律家のエレナとしては、どうにも我慢のならないやり方であった。
「バルカは税金を払っていませんでしたからねぇ」
老女は人ごとのように笑った。
「まあ、払っていたらいたで、あの人達は何か別の口実をつかうんでしょうけれど」
アニス・ピットは全てを見通していた。と、エレベーターが止まり、扉が開いた。扉の向こうには、いつか地下の実験ラボにエレナを案内した影を縫う女が立っていた。女は小型の自動小銃を二丁、左右の脇にベルトで吊していた。女はエレナと目が合うと薄く笑った。どうも、彼女はすでにエレナのことを仲間と認識しているようであった。
「はい、ご苦労様」
アニス・ピットは、そう言って影を縫う女のほうに軽く会釈をすると、エレナを連れたまま廊下を歩いていく。黒服の女は何か他に仕事があるのか、エレナ達とすれ違うとどこかへ去っていった。エレナは老女と共に、ホテルの裏庭に出ると、そこに留めてあった小さな乗用車に乗った。ハンドルを握るのはアニス・ピット自身であった。
「どうして、このように手の込んだことを?」
アルビオンはバルカの居城である。エレナはバルカ側の人間なわけだから、ここまでこそこそする必要は無いはずではないのか?エレナはそう思ったのだ。
「軍が動いていることは、アルビオンの人達にはまだ伏せられています。貴女が血相を変えて飛び出して行くのを見たら、アルビオンの人達が疑うようになるでしょう。怪我人を少なくするためには、こうするしかないのですよ」
老女はそう説明すると、イグニッションキィを回した。古めかしい形をした2ボックスの車は、ホテルの敷地から出るとアルビオンに向かって走り出す。
「どこへ向かうのですか?」
エレナは助手席から訊ねた。
「安全な場所ですよ」
ハンドルを握る老女と言った。そして、老女の言葉が終わるのとほぼ時を同じくしてエレナの耳に不愉快な金属音が聞こえてくる。最初、耳の錯覚かと考えていたエレナであったが、金属音はエレナの鼓膜にを確かにゆすり、しかも徐々に大きくなっていった。
「エンジン音?」
エレナは窓を開けて、車外似眼を凝らした。銀色をした尖塔のような高層ビル群に反響して、音の源がどこにあるか、エレナにはなかなか判らなかった。
「どこかにいる……軍用機?」
と、車窓から空を見上げていたエレナの眼に、深い緑色をした機体が飛び込んでくる。本当に出し抜けのことであった。
「連合の空挺師団!」
エレナはドアミラーが巻く風に髪を滅茶苦茶にされながら叫んだ。エレナが見たのは大型の輸送機であった。それも数機からなる編隊。恐らく戦力にして一個師団はあるだろう。果たして、輸送機はおしりのハッチを開けて、白いパラシュートを次々に吐き出していく。
「東の平地に降下するみたいね」
老女は冷静に言った。
――そんなに落ち着いている場合ではないだろう!
エレナのほうが異常事態によほど興奮していた。
「コレオーネの坊ちゃんの話だと、西には、機甲師団が展開しているとか。完全な挟み打ちね」
「ど、どうするのです、あんなに沢山の軍団……」
エレナは呟いた。これほどの軍団が動員されたという例をエレナは、自身の眼で直接見たことが無かった。
「どうしてバルカは反撃をしないのですか?」
エレナは責めるようにして訊ねた。彼女は自分でも意識していないが、いつの間にか心情的にバルカの側に立っていた。老女は品良く笑って、こう答えた。
「ジュリアーノ坊ちゃんに聞いてくださいな。でも、そんなに心配するようなことでもないんですよ」
「心配するようなことではない?」
エレナはひきつっている。
「これが心配するようなこといではないのですか?」
「ジュリアーノ坊ちゃんは軍隊の出動を知っていたし、貴女を安全な場所に移すことも成功しました。そうでしょう?」