バルカ機関報告書
半年が経って戻ってきた科学の街は『建設的な方向で』変化を見せていた。これは連合という大きな枠組みの中にある地域としては異例中の異例であった。全星域で起こった反乱は連合を大きく揺さぶり、この揺れのせいで大星間連合国の版図のあちこちに綻びが出来ていた。連合軍と市民の間で起こった銃撃戦のせいで破壊された市街が随分とあったし、地球本国の建物でも報復テロのせいで壊れてしまったものが少なくなかった。殖民星の中には軍の艦船による軌道からの爆撃によって地形がまるごと変わってしまったところすらあった。殖民星の側がバルカの手引きによって連合の艦隊を奪取するまでの数週間、連合のあちこちで鉄と炎が猛威を振るい、多くの人々が傷つき、倒れていった。エレナ本人もまた戦火とは無関係というわけにはいかなかった。殖民星に奪取された艦隊による威嚇射撃の余波を貰って、オールドゴウルでも多くのビルが倒壊するなど極めて甚大な被害が出ていた。エレナが勤務していた法務省の庁舎ビルは無傷だったが、彼女が通勤に使っていたモノレールは爆撃の際の猛烈な衝撃波のせいで線路の二カ所が寸断されてしまった。しかも全星規模で騒乱状態が続いていたので、補修資材の調達もままならず、半年が過ぎても線路の復旧は終わっていなかった。要するところ、連合のどこもかしこもが散々な有り様となっていたのたである。唯一、アルビオンを除いては。この連合の影の首都と、その生活物資の補給地となるラス・カサス・デ・ラ・フロンテラ市は軌道からの爆撃の影響も無く、連合全土で燃え上がる野火のことなどまるでシネマヴィジョンの中だけの作り話といった具合に発展を続けていた。
――全土で墓が並び立つ頃、アルビオンでは建設クレーンが並び立ち。
と、いうわけである。
変化、と、いえばエレナの身分にも変化があった。
彼女は内務省をすでに辞職していた。二十代の女性で司法のトップになるというバルカが敷いてくれたレールをエレナは穏やかに断っていた。巨大組織、科学のマフィア共の言いなりに誰が意地もあったが、それよりも何よりも彼女は全世界を背負わされるという職責に正直、恐れを感じていたのだ。かつての優等生は、勉強をしなければならないからというただその理由で今までやって来たのであって、何かを大事を成し遂げようという意識にはもともと欠けていたのだ。登りつめて頂点に立とうという野心も、誰かを思いのままに動かしたいという支配欲も持ち合わせていない。彼女はただ目の前のハードルを必死に飛び越えているうちに官僚となってしまっていたのだ。そして、鉛の鎖をいよいよ取り付けられる段階になって初めて気がついたのだ。
――これはまずい。
と。もっとも、エレナのような石を一心に積んでいるうちにそれが山になってしまったというタイプの人間は彼女の職場には実は珍しかったようである。そのことを若い監査官は実にふつつかなことであるが退職間際になって初めて知ることなった。
――辞めようと思います。
退職を切り出したエレナに、直属の上司も同僚もまるで自分がクビにでもなるかのように慌てたものである。
――いったい何故?
上司も仲間達も任地から戻ったエレナがすでに、以前の彼女でないことを薄々とではあるがに認識しようとしている。アルビオンで何があったのか彼らは知らないが、それでも貧乏くじを引かされた若い査察官が内務省の長官から何度か呼び出しを受け、その扱いが簡単に言うとエリートコースに乗った人間に対するものとなったということは人の目にも明らかであった。それが職を辞めようと言い出した。上司にしてみればエレナの行動は慌てることであり、同僚にしてみればどうしてと首を傾げるようなものである。
――貴様がいらないのであれば、そのコネをこちらにによこせ!
露骨には言葉には出さなくとも、そのような顔をしている同僚の何と多かったことか。それだからこそエレナ本人の意志は固まったとも言える。全土で死傷者が出る未曽有の大乱にあって、なお自身の立身を望むような慮外者を果たして同じ人間種とみなして良いのだろうか?エレナとしては、こんな連中と一緒に仕事をしてきたのかと今更に慨嘆する思いである。彼女はやはり辞職するしかなかったのだ。
――病気で身体が言うことをききません。
エレナはもちろん病気ではなかったか、嘘も方便である。彼女はそういうやり方を出張先で学んだのだ。彼女が笑って辞表を提出したときには、彼女はすでに省内のデスクの資料のほとんどを廃棄してしまっていた。戻らないと決めた上での行動である。
――さあ、どうする。バルカの王。
エレナは自分の行動がおそらくは利権集団のトップにの耳に入ると予測しており、ドン・コレオーネがどういう顔をするかを彼女は非常に楽しみにしていたのだ。そして、彼女の猪口才な行動に対する法王の答えがアルビオンへの出頭命令であったのだ。否、それ程、大げさものではないし敵意に満ちたものでもない。
――仕事も一段落したので、一度、遊びに来ませんか。
ドン・コレオーネは職場を放棄したエレナの元に手紙という極めてアナクロな方法で接触を求めてきたのだ。かつての査察官はその誘いに乗る形で再びアルビオンに乗り込んで来たのである。罠であるとか叱責の心配をエレナは最初からしなかった。そのような疑いを最初から抱くこともなかったのだ。彼女はバルカの王をそれほど恐ろしいと思ったことがない。それはあまりにも小さな魚が鯨を打つ銛を恐れないのと同じことであろう。エレナはアルビオンに入るとすぐに市庁舎に向かった。アポイントも何もなかったが、そのようなことはお構い無しである。エレナもすでに若き指導者の流儀について弁えている。果たせるかな市庁舎の窓口嬢は、来訪したかつての監査官の名前を聞くと、邪険にするということもなく、すんなりと市長に取り次いでくれた。ただ、この時にはエレナはバルカの王との再会することができなかった。
――市長は午後はお休みをとっています。
受け付け嬢はそのように言った。一方、エレナのほうは別にどうということもない。彼女はコレオーネの自宅を知っていたし、そちらに直接行けば良いだけのことである。
――出直しましょう。
市庁舎を去ろうとする元査察官を窓口嬢が引き留めた。どうも、どこかから追加の指示があったらしい。
――ゴールドウィン様。市長はエアンネス親水公園のほうで釣りをなさっているということですので、そちらに行かれるとよろしいかと。
わざわざ入り口の所まで走ってきた受付嬢に笑って答えると、エレナはそのまま市庁舎ビルを出た。
アスファルトの大通りを北へ。