あの人を待ちながら
折原臨也をただの男に変える、それほどの魔力を持っていて。
「あきらめたくなんか、ない」
それがゆえに臨也はしがみつく。みっともなくてもいい、カッコ悪くていい。まだ返事を聞いてない。
まだ、あの子の瞳の奥で揺れ動いた炎の意味を、知らない。
震える臨也の体に容赦なく雨が降り注ぎ、黙ってその様子を見下ろしていた静雄は大きく息をつく。この男をここまで変えたのがあの小さな少年だと言うことに感嘆する。世界は案外、こんなにもちっぽけなものによって色を変え、予想もしなかった声によってたたき割れて、想像さえできなかった温度に塗り替えられていくのだ。
「・・・勝手にしろ」
静雄は説得をやめた。
いなくなれくたばっちまえと心底思う相手だが、それでも。
テメエの思いに殉じると言うのならば、そこのところだけ評価してやろうと思ったからだ。そのまま踵を返して池袋の待ちに静雄がまぎれて消えていく。その姿が小さくなってからようやく、臨也は顔をあげてそろそろと人ごみへ視線を戻した。
ぼんやりと見つめ続ける人ごみの端っこに、見慣れた青いブレザーがよぎる。
臨也は立ちあがって、予想以上に冷え切って言うことを聞かない体に愕然としながら、それでも走りだした。町は傘をさす人の群れでカラフルに彩られていたけれど、どの色彩も臨也をひきつけることはなく、ただ、小さな背中を追いかける。その背中が傘を持たないことを案じる。
人ごみを縫うように、もつれる足を動かした。水槽の中を走っているみたいだ、と臨也は思う。体が重くてなかなかうまく前に進まない。足を踏む出すことが辛くて辛くて痛かった。まるで人魚姫だ、と自重する。そんな柄じゃないなんて分かりきっているけれど、かの姫様は一歩歩くたびにナイフで切り刻まれるように足を痛めたと言うではないか。今まさにそんな感じなのだ。
今にも路上に伏して泣いてしまいそうだった。体がうまく動かない。手足が自分のものではないように思い。鉛になってしまったんだろうか、その重さが煩わしい。
「・・・かど、くん!」
呼ぼうとした声はかすれてちぎれて、雨に打たれて消えていく。
臨也には分かっていた。ほとんど信じていたと言ってもいい。帝人は決して臨也の前にやってきて声をかけたりしないと。いつだって彼の行動は臨也の予想と少しずれていたから、多分、本当に会いたいときは決して会いにきたりはしないのだ。だから、もし帝人が肯定をくれるなら、その時彼が現れるのは人ごみの雑踏で、臨也がそれに気づかなかったらそこで永遠に肯定されるチャンスはなくなるのだろう。そう信じていたからこそ、ずっとずっと人ごみを見つめていた。
そして帝人はやっぱり、臨也に一瞥をくれただけで背を向けた。
追いかけてほしくないなら走るはずだ。
歩いて遠ざかるのは、追いかけてほしいからだ。
そのくらいのことが分かるくらいには、臨也の中で帝人の心情は分かりやすいものだった。だから臨也は手を伸ばす。たたき落とされることはないはずだ。帝人が背中を向けて歩き去った、その事実が答えだ。
彼は臨也を肯定した。
涙が出そうだ。
泣いたらカッコ悪いけど、今更だ。
「・・・っ、帝人君!」
雨にぬれた頬を、暖かい涙がこぼれ落ちていくのを他人事のように感じた。
決して止まってはくれない。帝人はただ、臨也が追いつくのを待っている。だから追いつかなければいけない。体中が痛んで軋んでぐらぐらと歪む。それでも走る。池袋の雑踏は行く手を阻むように流れるけれど、そんなものは臨也にとってなんの障害にもなりはしない。
「帝人、君!」
そうしてようやく、息を切らせた臨也が帝人の肩をつかんだ。
息が荒い。耳鳴りがする。無理やり走った足が痛い。体中がぼろぼろだという自覚があった。けれども帝人を捕まえた。臨也にしてみれば、それが一番欲しいものだ。帝人が手に入るなら、足くらいくれてやる。心なんかくれてやる。耳なんかちぎってやってもいいし、それでも信じられないと言うのならばこの首をくれてやる。
「好きだ」
三日前の告白と、全く同じ言葉が唇からこぼれ落ちる。
「好きなんだ、君のことが、どうしようもなく、途方もなく、底のない沼のように、俺をつかんで離さないんだ」
あの日自分はどんなふうに、その言葉を言っただろう。
ああ、そういえばあの時も雨にぬれてびしょぬれで、そして。
「帝人君、お願いだから」
陳腐で誠実で。薄っぺらで欲深く。そうして臨也はやっぱり三日前と同じように、同じセリフを吐く。
「俺を見てよ、最後に見る景色は君がいいんだよ・・・」
帝人がはじかれたように臨也を振り返る。同じようにしたたか濡れた帝人の頬を、三日前と同じようにぼろりと涙がこぼれ落ちる。
そんな顔をさせたくて言ったわけじゃないんだけどなと臨也は笑おうとして、ああもう無理だと崩れ落ちた。なんだこれ、まるで三日前の再現みたい。そんなことを思いながらも視界が薄れてかすむ。
帝人君、帝人君。
何度も何度も呼んで、その響きを心の中で確かめた。
きみがすきなんだ。あきらめたくないんだよ。
*****
「・・・っ、みか、ど・・・くん」
目を覚ませば、そこは薄暗いどこかの部屋だった。
「気付いたかい、臨也」
カツン、と足音がして、もはやおなじみの新羅が覗き込むように臨也を見る。
ここはどこだろう、確かさっきまで俺は池袋に、そこまで考えて、臨也は理解した。
「・・・ゆめ」
ああ、どうりであの天敵は喧嘩を売ってこなかったわけだ。というかなんであの人選だったのか分からない。夢って謎だね。それにしてもどういうことなのだろう、体中がギシギシと痛んで軋む。夢ではあれだけ走れたのに、指一本も動かせそうにない。
「帝人君に感謝しなよ、セルティがたまたま休みじゃなかったら、君は今頃地獄だ」
「・・・あ、れ」
「三日も意識不明の重体だったわけだし、しばらくは安静にしてなきゃいけないよ。それにしても意外だったなあ、本当に本気なんだね、帝人君のこと」
視線だけで自分の状態を確認すれば、臨也は全身に包帯を巻きつけている自分に気付いた。なんだこれ、あれ。どうしてこんなことに。何本か点滴もつながっているらしい。それに、三日も意識不明だったとかなんとか。
「帝人君、」
「・・・あれだけの怪我で、よく帝人君に会いに行ったよね、君」
無意識って怖いよね。俺も思うよ。臨也は心の中で同意した。そうだった。
三日前。
臨也は確かに仕事でへまをして、そりゃもうずたずたのぼろぼろだった。おまけに雨まで降ってきて、血は止まらないし、これは死ぬかもしれないと本気で覚悟した瞬間、痛む体を引きずるようにして、帝人を探したのだ。
帝人の家へ瀕死でたどりついて、ノックをしたけど彼は扉をあけてくれなくて。だからドアの前で告白をした。
好きだ、といった。
好きなんだ、君のことが、どうしようもなく、途方もなく、底のない沼のように、俺をつかんで離さないんだ。ときざな台詞を吐いた。ここまでの台詞に、帝人はドアを開けようか迷っている様子だった。