木下闇
気をつけて行けよと言おうとして、この男にその忠告は必要ないだろうと口を噤む。浮竹は少し考え、
「元柳斎先生に見つからないようにしろよ」
と言葉を変更した。
京楽はしたりと笑い、
「だからキミたちの部屋の窓を拝借するんだよ。ボクの所からだと大層目立つからねェ」
入学と同時に問題児としての本領を発揮しだした京楽は、山元元柳斎重国学院長の命で一番上の階の一番端の部屋を与えられていた。
それでも舎監室の前を難なく突破してよく抜け出していると聞いているが、今回は万が一に備えたのかもしれない。
そこまで大切な相手なのだろうか。
考え出すとまた気分が悪くなりそうだったから、浮竹はくるりと彼に背を向けて
「じゃあ俺は寝るからな。窓の鍵は掛けないでおくからお前は勝手に入ってきてくれ」
既に設えられている布団に身を横たえた。おそらく、その方が京楽も出ていきやすいだろう。
それに正直、女性に会いに行く彼の後ろ姿を見送りたくはなかった。
だが。
「おや寝るのかい。じゃあ大人しくしていようか」
「え…?」
布団の見える位置に腰を下ろして、京楽がじっとこちらを見ている。
浮竹は驚いて起きあがった。
「お前、出かけるんじゃないのか」
「いやァ、まだ待ち合わせまで時間があってね」
「なんだと!」
既に日付も変わろうとしているのに、この上まだ遅い時刻に待ち合わせとはいったいどういうことなんだ。
浮竹と目が合うと、京楽は眠たげな目をよりいっそう細めて困ったような顔をする。
「なんでも一週間後に意に染まぬ結婚が決まっているとかいう話でね。屋敷の者がみんな寝静まるまで待たなきゃあならないんだよ」
「………………」
意に染まぬとはいえ、結婚が決まっている相手に会いに行くのか。連れて逃げる気もないくせに、この世の名残りとばかり幸せな夢を見せるのか。
浮竹の非難は視線に表れていただろうが、京楽は頓着せず「そんなことより」と話題を変えてしまった。
「ボクにかまわず休んでおくれよ」
「…………あ、ああ」
失敗した。
こうなるのが分かっていたら眠るなどと言い出したりはしなかったのに。浮竹がいつまでも眠れないでいれば、京楽はきっと自分の所為だと誤解するだろう。
はねのけた掛け布団にもう一度潜り込みながらどうしたものか考えていると、京楽は何を思ったのか、四つん這いでのそのそと近寄ってくる。
浮竹の前までたどり着くと上から覗き込み、
「それとも、いい夢が見られるようにボクが子守歌でも歌ってあげようか」
そんなことをほざく。浮竹は思わず吹き出した。
「子守歌ってお前なあ…」
「ああ、それとも昔話がよかったかい?」
「俺は子供じゃないんだぞ」
「まァいいからいいから。ちょっと目を閉じてみてごらんよ」
言われるままに目蓋を下ろすと、むかぁしむかし、といつもの間延びしたしゃべり方で、どこかで聞いたような物語が頭の上から降り注いでくる。
柔らかな甘い声でとうとうとおとぎ話を語る京楽は、なんだか妙に楽しそうだった。
浮竹は諦めてその声音に聞き入る。このまま目を閉じていれば、眠ったと勘違いしてくれるかもしれない。
それにどのみち時間がくれば、彼は浮竹が寝ていようと起きていようと出かけるのだ。
やがて、物語のリズムに合わせてポンポンと、布団の上から京楽の大きな手が浮竹を優しく叩きだした。温かく満たされるその感触に、強張っていた心がゆっくりほどけていく。
このところはいつも、布団に入ると、今日は眠れるか明日にはすっきりとした目覚めで朝を迎えられるかと、焦るばかりだったのだ。
その前は、新しいことを教わるのが楽しくて、試験のためばかりではなく就寝時間までみっちり勉強し続けていた。
だから、こんな風に何も考えずぼんやりと他人の声を聞いているのは久しぶりだった。京楽の語る話は、瀞霊廷に住む子供なら誰でも一度は耳にする類の物だったから、浮竹は話の筋を追わずただその声だけを楽しんだ。
それにしても、この男はいったいいつになったら出かけるつもりなんだろう。
そう思ったのを最後に、浮竹の意識は深い闇の中に沈み込んでいった。
からり、窓の開く音に冷たい朝の空気が混じり、意識がふっと浮上した。
久方ぶりの熟睡から目覚めた浮竹は、なかなか脳を覚醒できずにぼんやり宙を見上げる。そこには京楽の気遣うような顔があって、覚えず微笑んだ。
「起こしちゃったかい?」
「京楽……俺は眠っていたか」
「うん、とてもよくね。……さ、もう少し眠るといい。まだ時間はあるから」
落ち着いた声でそう言われると、自然な欲求のままに従いたくなる。浮竹は素直にもう一度目を閉じた。
鼻をかすめる淡い香りに、ああ、彼はちょうど帰ってきたところなのだなと思った。女性の焚きしめる香にしては不思議な匂いだと思ったが、嫌な感じはしない。むしろ心地よく身を委ねたくなる香りだ。
うとうととしていると、やすらいだ光の中で大好きな家族とのんびりお茶を楽しむ夢を見た。恐い顔の彼らに頑張りすぎを咎められて苦笑する。
幼い頃から無茶のすぎる長兄を、彼らはいつも心配していた。弟や妹に叱られるのが慣れっこな浮竹は、そこに確かな愛情を感じてはいつも口元がほころんでしまう。
発作を起こして寝込んでいるとき、血の巡りの悪くなった手足はとても冷たくなっていて、それを一番下の妹が小さな手で一生懸命さすってくれる。誰かから与えられる想いの欠片とはかくも温かいのだと、浮竹は床に伏せるたびにそう思った。
どうしてだろう。いま、そのぬくもりと同じ感覚を覚えるのは。
なぜだろう。こんな、家族といるとき以上に柔らかな安堵感を覚えてしまうのは。
浅い眠りの中で、傍らの安定した霊圧が、浮竹の眠りの番をしていてくれるのが分かった。それは意識の底に深く深く沈んで、記憶には残らなかったけれど。
それから七日間。京楽の夢物語に誘われ、浮竹はそれまでの不眠が嘘のように毎晩ぐっすりと眠りについた。